日中戦争が泥沼の長期戦に陥っていた昭和十四年四月、東京市の総合的な行政広報誌として『市政週報』が創刊された。これ以降、昭和十八年七月の都制施行により第二一六号(18・6・26)を最後に、誌名を『都政週報』と改め、太平洋戦争での日本の敗色が濃くなった昭和十九年十二月二日付第六〇号をもって都政週報が終刊となるまで、都(市)政に関する唯一の総合的報道機関として、市民向け行政広報誌としての役割をはたした。
戦時下での都の広報活動は、政府や軍部の指揮監督下にあり、都としての自由な広報活動はほとんどできず、一方的な「上意下達」のかたちで、都民に知らされていたにすぎなかった、といわれている。事実、戦時下での言論・出版は、国策に沿うかたちで、国家による統制と指導をうけた。昭和十六年三月、市政週報発刊百号記念特集号で、当時、編集発行の当事者であった総務局情報課長は、市政週報が果たしてきた役割を「未曾有の重大時局にあたり、帝都市民としていかに国策に協力すべきかを説き、市政の実情を広く市民各位に伝え、市政に関する各方面の意見を紹介し、戦時下市民生活の向上充実のために微力を傾けてきた」と述べて、今後の果たすべき使命に期待している(第一〇〇号、16・3・15)。
誌面には、各時期の行政施策の解説や関連記事、区政・町会ニュースを中心に、時の話題などが読みやすいかたちで紹介され、市政週報では、市民からの投書欄が設けられた。都(市)政普及に重きが置かれるとともに、戦時下市民生活に欠かせないきめのこまかい情報が登載された。その意味で、戦時下での都(市)の広報活動の実態と、市民生活の一断面を示す恰好の資料ともいえる。昭和十三年四月に制定された国家総動員法のねらいは、人と物のすべてを動員する、総力戦システムを国家が強引につくろうとするものであった。
本書は、『市政週報』『都政週報』の記事内容を手がかりに、人的・物的資源の動員が、戦時体制下の首都東京でどのようにおこなわれたのかを、非常時での危機管理のあり方にも留意して、戦時下の広報活動を通して考察するものである。総力戦システムと市民生活とのかかわりを考察するにあたっては、貯蓄奨励、母性保護、資源愛護、防空、健兵健民、代用食、町会隣組、学童疎開など、戦時体制を象徴する主要キーワードをいくつか選定し、キーワード別に、戦局の推移とともに、行政がどのような情報を、どのように市民に発信していったのか-とくに誌面を飾ったスローガンやキャッチフレーズに注目しながら、検討していくことにする。
なお、市政週報と都政週報が各時期に抱えた課題と、誌面の構成や雰囲気を理解しやすくするため、巻末に総目次を付した。本書の調査執筆は松平康夫が担当した。
本文中に引用した『市政週報』、『都政週報』など雑誌の号数及び発行年月日の表記は、下の例のようにした。
また、記事引用の際には、読みやすくするため、原則として漢字は常用字体を用い、送り仮名など一部は現行の字体に改めた。