都史紀要12 江戸時代の八丈島
はしがき
都政史料館の川崎が、昭和二十三年六月二十一日より七月二日まで十一日間にわたって八丈島における史料の保存状態の調査を行い、その際の資料を基にして、現在の都政史料館が保存している八丈島関係の史料をあわせとりいれて、当時の文書課より「江戸時代の八丈島」として謄写印刷を以て刊行したのは昭和二十五年一月のことである。いわば調査報告書ともいうべきものであったといってよい。
その後都の教育委員会の手で、三十一年伊豆諸島の文化財総合調査が行われ、三十三年に「伊豆諸島文化財総合調査報告」四冊となってその結果が公表された。八丈島に関する調査はその第三、第四分冊に収められている。しかし、当時の調査は文化財を中心にした八丈島の現況調査であったため、その報告書に基づいて現在史料館の所蔵する八丈実記その他八丈島関係の史料や、八丈支庁より移管した流人帳などを閲覧にくる人がなおあとをたたない。
そのため、多少その後に得た史料によって補訂を加え、ここに江戸時代の八丈島の概説的なものを刊行することとした。
もちろん、この小著の使用した史料の大部分は現在都政史料館に保管されているもので、現在八丈島に残されている個々の史料はあまり引用していないといってよい。
それは近藤富蔵が八丈島に流罪中、島に存する第一義的史料をほとんどあます所なく収録して、これを「八丈実記」として残してくれたからである。八丈島に関する史料は、まずこの「八丈実記」をみれば大体ことたりるといってよかろう。
しかし富蔵は明治二十年死去するまでにこれを清書して首尾一貫したものとする目標のもとに、なお整備中であったらしく、「八丈実記」の史料館所蔵本についてみると、全くいりくんでいて重複した史料が所をかえて三ケ所も入っているものなどがある。
この「八丈実記」は富蔵の死後、三根村の富蔵の家に保存されていたが、東京府の銀林綱男大書記官が八丈島を視察した際これを東京府にもち帰り、七十冊のうち四十冊は第一義的史料でなかったため、これを島に戻し、残り三十冊を金五十円で買いあげて、富蔵の手近蔵に給与した。これが東京府に八丈実記が保存されたいきさつである。
近其嶋三ツ根村藤富蔵生存中編纂セシ八丈島実記六拾九冊ノ内、全ク八丈ノ実記ニ係ル分二拾九冊、今般代価五拾円ニテ府庁ヘ買上ケ相成候ニ付テハ、右代価及送付候条、同人孫近藤近蔵へ下付、請書ヲ徴シ廻送有之度、此段及照会候也。
東京府に保存されている、近藤富蔵編さんの「八丈実記」については、左の通り記されている。
右八丈島ノ旧流人近藤富蔵守真ノ輯スル所ナリ、守真ハ近藤重蔵守重ノ男ナリ、文政九年五月父守重罪アリテ分部右京亮ヘ預ケラレシ時、守真ハ八丈島ヘ謫セラル。(事実は富蔵が目黒で事件を起し、重蔵はその科により罪を得たのである。)維新ノ後、赦ニ遇テ一タビ東京ニ還リシガ、世事一変シテ頼ルヘキ親族等モナカリシバ、再タビ八丈ニ赴ク、本島ニ在ルコト凡六十一年ニシテ、今茲ニ二十年八月寿ヲ以テ其地ニ歿ス。年八十三歳ト云フ。サキニ銀林書記官ノ伊豆国諸島ヲ巡視スルヤ、此書ヲ獲テ斉ラシ回ル。因テ其中本島ノ義ニ係ルモノ三十巻ヲ択ンテ之ヲ買収シ、以テ本府ノ架蔵トス。其余四十冊ハ雑著ノ抄撮ナレハ、其家ニ保存スヘキ旨、地役人ニ口諭シテ還シ戻サル。其書タル未定ノ稿本ニシテ記載錯雑頗ル検閲ニ苦シムノ憾少カラスト雖、要スルニ其人久シク島地ニ在テ筆録スル所ナレハ、記述スル所一ノ虚構ナシ、以テ他日島志ヲ修スルノ用ニ供スルニ足レリ。乃チ其来歴ヲ記スル如此。
明治二十年十月十八日文書課主任属吉水経和、追テ残リ四拾冊及返付候也。
八丈実記六十九冊(七十冊)のうち二十九冊(三十冊)を府が買い上げ、残り四十冊を返したという記録によると、現在末吉の長戸路氏の家に保存されている近藤富蔵自筆本の八丈実記の抄録本と思われるものはどう解釈すべきであろうか。恐らく近藤富蔵としては、一応八丈実記をまとめあげた上、あまり順序が雑然としているので、これを統一あるものにするため、一部を清書したり組替えたりしようとしたのであろう。それが末吉の長戸路氏の所蔵となっ て保存されていたものと思われる。富蔵は「八丈実記」について、一、海道、二、名義、三、地理、四、土産、五、沿革、六、貢税、七、船舶、八、海嶋という目次をつくっている。正本としてはこの目次通りのものとしようとしたらしい。
しかし、府の購入したものは「原書巻次錯襍シテ閲覧ニ便ナラス、故ニ組部類ヲ以テ相従ヒ、或ハ合シ、或ハ折テ、通計三十六巻トスルコト如右」として、府において、適宜の分類を行って三十六冊とした。これが現在の都政史料館に保存されている八丈実記なのである。
それなら、返還した他の四十冊というものはどうなったか。島にある雑書の「抄撮」であるとしているが、長戸路氏の家に所蔵されている「八丈実記」と思われるものの外の史料類には富蔵の自筆と思われるもの、つまり「八丈実記」として私達がみとめているもの以外の史料集は見当らない。この点は大きな疑問である。その四十冊が、単なる八丈島の史料の写本で重複しているとしてかえしたのか、八丈に関係の全くない富蔵守真としての書きとめたものであったため返還したのか、この点を明かにすることは出来ない。
この「江戸時代の八丈島」が、その史料の多くを「八丈実記」に得ていることは当然のことであるが、他に都政史料館が所蔵する七島巡見誌や園翁交語、八丈島大概、海島風土記等のほか、八丈支庁より移管された八丈島の「流人在命帳」や、「八丈島大概帳」などの島関係のもので現在都政史料館に蔵されているものを充分に活用することができた。
この小篇は、八丈島が食糧不足の島という大前提のもとに、それがために貢租を米の代りに八丈絹―黄八丈で納めたこと、それが八丈島の特産物とするに至った上、相つぐ食糧不足を補うため幕府から借用した食糧の分を更に黄八丈で返済しなくてならなかったこと、それでも飢饉の連続した時にはなお多数の餓死者を出さざるを得なかった島の事情を、「食糧と黄八丈」と「人口問題」という点からほり下げ、この僅かな八丈島の人口でさえ、次第に増加して遂には内地や小笠原島へ「出百姓」という形で出島させる以外に食糧事情を緩和することができなかったという点の究明に主力がおかれている。
本書の編さん執筆は川崎房五郎が担当した。
昭和三十九年八月
都政史料館