都史紀要35 近代東京の渡船と一銭蒸汽
はしがき
昭和三十九年、隅田川で最後まで残っていた佃の渡しが、佃大橋の架設により江戸期以来の長い歴史の幕を閉じた。渡しは、地域を結びつける道の継ぎ手として生活の場であり、ある時は、行楽の客でにぎわういこいの場でもあった。
都市生活に密着した旅客輸送の手段として、渡船・通船(早船)・乗合蒸汽船は、明治・大正・昭和のそれぞれの時期に水上交通機能の一翼をになっていた。大正十五年、東京市政調査会主催の市民賞論文集に選ばれた「東京市の交通問題」は、都市交通機能の改善策を示したところで、都市の発達は川のある所に始まると云ふ程なのに、わずかに貨物の運輸だけで、人間の交通には数個の渡船と一銭蒸汽だけでは情ないと思ふ」と述べているが、明治四十二年当時、市内隅田川、荒川、小名木川、油堀の各川筋に設けられた二二の私営渡船場の年間利用者は一五七万人余、都市化のすすむ大正九年の市内一二の渡船場で二二七万人余を数えており、市内交通機関として独自の役割を果たしている。
近年、河川や港湾の水辺利用への関心が高まっているが、明治十八年に隅田川に登場した一銭蒸汽は、現在の水上バスの起源ともいえる。昭和四年の『新版大東京案内』は自動車の激増と比較して「わすれられんとしてゐるもの、いな忘れられてしまってゐるものに、隅田川の一銭蒸汽がある。彼はもはや古典的存在だが昔のまゝそのまゝ尚ほ健全(?)だ」と紹介しているが、主流である陸上交通に対する水上交通の当時の置かれた状況を、この表現は端的に言い表している。
本書は、旧市域(ほぼ現在の二十三区域)を対象にし、主として明治期における渡船・早船・一銭蒸汽の開設・利用状況等の実態把握を通じて、水運を利用した旅客輸送の実態とその展開過程を考察しようとしたものである。当館所蔵史料を中心に検討を加え、当時の新聞・雑誌等でこれを補足した。区史など地域資料が紹介している個々の渡船場については、あえて詳しく取り上げなかった。渡船場の位置・開設時期に関する確認作業を経なければ、十分な考証が出来ないと考えたからである。この点については、大正期以降の検討とともに今後の研究課題としたい。
なお、掲載した渡船場の略図は、出願文書にある原図をもとに字句の配列など一部修正して作図した。本書の調査・執筆は松平康夫が担当した。
近代東京の渡船と一銭蒸汽 目次
Ⅰ 明治初年の渡船の概要(1)
Ⅱ 渡船の開設状況とその背景(21)
Ⅲ 一銭蒸汽の出現と川汽船会社の台頭(94)