近年江戸に関するさまざまな分野の研究が進んだことによって、江戸の町々の復元が可能になってきた。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館は江戸橋広小路を復元し、江東区の深川江戸資料館は江戸の町の一部を典型化し実物大で復元、近々開館される江戸東京博物館でもその試みがされようとしている。深川江戸資料館で復元された江戸の町並みを訪れて、改めて実感されるのは、裏長屋の狭さと生活の簡便さである。九尺二間、畳六畳分の広さのところに上り口と台所と居間があり、家具といえるものはほとんどない。井戸や便所は共同である。これは特殊な状況ではなく、江戸の全域にわたって多数存在していた住まいの状況である。本書では屋敷絵図、町絵図によって町々の居住環境を明らかにしてみた。
本書は今から丁度二〇〇年前、一八世紀から一九世紀へと移っていく時代を中心に、江戸の住宅問題を解明しようとしたものである。寛政改革の推進者松平定信が老中首座に就任したのは一八八七年(天明七)六月一九日である。そして翌一八八八年(天明八)三月将軍補佐に任ぜられた。若冠二九歳であった。それまで幕政の中心人物であった田沼意次が辞表を提出したのは一八八六年(天明六)八月、間もなく将軍家治が死去し、この年閏一〇月、領地没収(五万七千石のうち二万石)、江戸上屋敷、大阪蔵屋敷収公、江戸城出仕停止などの処罰がされたが、一二月二七日には謹慎が解かれ、一八八七年正月の将軍家斉への拝謁は老中に準じて許されている。松平定信が反田沼派の代表として政権の座につくことは衆目の一致するところであったが、定信が将軍家斉と従兄弟同士ということを理由に、大奥をはじめ、なお将軍の周辺をかためる田沼派の抵抗により実現しなかった。こうした政治的空白期に、将軍のお膝元江戸で大規模な打こわしが発生し、田沼派の解任、定信の老中就任へと情勢は推移した。
一八八七年の江戸打こわしは、物価、特に主食である米、雑穀の払底、騰貴によるものであるが、田沼政治のもとで庇護をうけていた特定の商人による買占め、売惜しみに対する不満が爆発したものでもあった。しかも再三にわたる町方の救済願いを無視するなど、町奉行所の対応は遅れ、ようやく関東郡代伊奈半左衛門の手による関東農村からの買集めによって事態を打開することになった。こうした経過からいって、新たな政権担当者の政治改革の課題は、田沼政治と同義語とみられる姦商を排除し、物価を安定させ、救済制度を確立することであった。
定信の老中就任以来再三物価引下令が出されていたが、本格的にとりくまれるようになったのは一七九〇年(寛政二)の二月である。この月、勘定奉行柳生主膳正、町奉行池田筑後守、初鹿野河内守を諸色掛に任命し、勘定方、町奉行所与力同心を実務担当者として配置し、物価調査に着手した。地代店賃引下げは物価引下げの一環として提起され、地代店賃、町入用に関する膨大な調査が実施された。しかし、地代店賃の引下げは実現せず、町入用削減額の七分を積金として救済にあてるという、いわゆる七分積金制度が発足することになった。
七分積金制度は、町々からの積金と幕府・富裕町人の出資金を資本とし、非常の時の救済にあてるとともに、町からの申請により名主、地主、拝領地主(武家)へ低利で貸付ける制度であった。この貸付制度はその利子収入によって救済資金の増資をはかるものであったが、同時に拝領町屋敷の地主(下級武士)を含む小地主層を保護するためのものであった。
地借店借層の生活安定、慰撫をめざした地代店賃引下げ等は見送られ、小地主層の保護を合せてもりこんだ七分積金制度として発足したことは、一見矛盾し、政策の転換とみえるが、当時の地主の役割、地主と店借との関係からいって矛盾するものではなかった。
江戸住宅事情というからには、まだまだ明らかにしなければならないことは沢山ある。本書では寛政改革期の地代店賃問題を中心に、その一端を明かにしたにすぎない。参考史料は巻末に付したが、大半は『東京市史稿』産業篇に収録、また収録予定のものである。あわせてご利用いただければ幸いである。
なお、本稿の調査執筆は片倉比佐子が担当した。