東京馬車鉄道会社は、明治一五年六月二五日開業以来、明治三六年電車に転換するまでの約二〇年間、新橋・上野・浅草を結ぶ東京の目抜き通りで営業を続けた。その間、明治三二年には品川馬車鉄道会社を吸収合併して路線を品川まで延長し、三三年には電車への動力変更の特許を得て社名を東京電車鉄道株式会社と改称している。
ある明治生まれの下町っ子は、この東京馬車鉄道を回想して「大通りは其処をまた、小さな鉄道馬車が不景気な鈴を振立てゝ、みじめな瘠馬に鞭をくれ乍らとぼとぼと、汐留から只一筋に、漸く上野浅草へと往復して居りましたが、今の電車と違って乗降も乗客の自由で、鳥渡言葉さへかければ何処の辻でも其処の角でも、勝手気侭に停めてくれました。馬は馬で所構はず糞便をたれ流す、車台は車台で矢鱈に脱線する、其都度跡の車台から駆者や車掌を招集して、はては乗客までも力を添へ乍ら掛声諸共元のレールヘをさめるのでありましたが、狡滑な人は其ひまに随分乗逃も出来たでせう。思へば実に幼稚な物で、其が東洋第一と誇る日本の主府、我東京市の面目を僅に保っていた唯一の交通機関であったかと思ふと、全く情ないやうな心もいたします」(喜多川浅次著『下町物語』)と述べているが、馬車鉄の持つどこかのんびりとしてユーモラスな、そしてまたどことなくわびしげな雰囲気がよく出ている。しかし、この「幼稚な」、「全く情ないやうな心」のする馬車鉄が、実はその最盛期には、三〇〇輌の車両と二〇〇〇頭の馬を擁して、毎日東京の中心地を馬糞まじりの砂ぼこりを蹴立てて往復しつつ、巨大な利潤をあげ、株主には毎季三割五分の配当を行う我が国でも数少ない超優良企業であったことは、案外知られていない。
都市交通の観点から東京を振り返ってみると、明治という時代は、歩くということが都市生活の基本であった時代から、人力車・馬車・鉄道馬車の時代を経て、電車による本格的な都市交通時代へと転換していく過渡期であったと言うことができる。それはまた東京が、「江戸」から銀座煉瓦街に象徴される文明開化の「東京」を経て近代都市としての「帝都」へと変貌していく過程とも対応する。本書はそういった創成期の都市交通の実態とそれが抱えていた問題を、東京馬車鉄道を中心に検討していくことにする。
なお、馬車鉄道から電車鉄道への転換については、最後に簡単にふれただけで、本書ではあえて詳しく取り上げなかった。東京における電車時代の到来については、明治三〇年代の東京改造論、東京自治論との関連で多面的に考察を加えなければ、その意義を十分に明らかにすることが出来ないと考えたからである。この点については他日稿を改めて検討することにしたい。本書の調査執筆は白石弘之が担当した。