新宿といえば、銀座・池袋・渋谷などとともに東京を代表する盛り場である。新宿は副都心ともよばれ、近頃は新都心という言葉も使われるようになった。この新宿という語が独立する以前の正式名称が内藤新宿もしくは内藤宿なのである。内藤とは、天正十八年(一五九〇)に徳川家康が関東に入国したときに、この地に広大な屋敷地を拝領した内藤清成の姓である。現在の新宿御苑は内藤家の屋敷の一部であるが、その北側に甲州街道に沿って造成された宿場が内藤新宿であった。四谷の大木戸から西へ追分まで、下町・仲町・上町の家並が続いていたが、現在でも新宿一丁目・二丁目・三丁目の区分が、ほぼ当時の宿内の町境と一致している。
本書は、江戸時代の内藤新宿の歴史を、元禄十一年(一六九八)の宿場の認可から明治維新まで五つの時期に分けて叙述したものである。宿の開設、廃止、再開、発展、幕末という区分は宿場の歴史であるが、それはまた江戸幕府の政治の画期と不思議に一致している。このことは、内藤新宿が元禄時代に新設されたときから、幕府政治の動向のなかで生みだされた宿場という性格をもっているために、当然負わねばならない宿命であったのかも知れない。新宿は千住・板橋・品川とともに江戸の四宿とよばれたが、他の三宿とは異なる歴史をもっているのである。
江戸時代以来、盛り場として発展してきた新宿に関する著作は多い。しかしながら、江戸時代の新宿の町や、そこに生きた人びとについての歴史には意外とふれていない。本書においては、できるだけ町の内部の様子を史料を通して紹介しようと努力したつもりである。
本書で主として用いた史料は、内藤新宿の開発者で代々名主・問屋を勤めた高松家に残されていた「高松家文書」である。これは現在、東京都公文書館に所蔵されており、その一部は『東京市史稿』市街篇・産業篇などに収録されている。史料の保存状況は良いとはいえず、虫喰いなど痛みの激しいものも多い。これらの史料を昨年春から封筒に入れ、年次別に整理して、七月に「内藤新宿高松家文書目録」を片倉比佐子・吉原健一郎の二名で作成した。史料は一一二八通の封筒に入れたが、その内容は一~六〇八が江戸時代、六〇九~七四四が明治時代、七四五~一一二八が年未詳である。
高松家の史料は関東大震災までは同家に所蔵されていたと思われるが、以後分散されたようである。東京都公文書館には、昭和十六年十月作成の「高松文書」(写本)がある。これは市史編纂室で写したもので八四点の文書が収められている。これらの文書は当館所蔵史料と重複していない。本書では「高松家文書」については出典名を省略し、写本のばあいのみ注記した。
江戸の四宿は、江戸という大都会との関係において発展してきた。同時に近郊農村とも深いつながりをもっている。ここに収めた史料は、右の事柄に結びついたものが多いが、さらに江戸市中の町を理解するためにも役にたつものも多いのである。なお、本書の執筆は吉原健一郎が担当した。