東京都においては、内湾の埋立てが、現在どんどん進行しており、旧十五区の東京市全体の広さぐらいの土地がすでに造成されているといってよい。そのため、東京名物の海苔さえも廃絶に至ったほどで、漁業という言葉は、もはや、東京都民には過去のものとなってしまったといえる。
隅田河口の佃島という中央区の一区域に、隅田川の白魚をとって、食膳に供した漁業者の集団があったことさえ、忘れられようとしている。
佃島は摂州佃村の漁師達がこの江戸の地に下って、徳川幕府の庇護のもとに、隅田川の出洲の一角に土地を築立てて、江戸内湾漁業の根拠地としたことから、その島の歴史がはじまる。
将軍の食膳に供する魚献上の外、シーズン中白魚をとって、それを城内に運ぶという特別の任務を別に課せられたことから、由緒を尊重する徳川幕府が、彼等が関西から下ってきて間もなくの慶長十八年に、江戸近辺の海川どこでも網を入れて魚猟をしてよいとの特権を与えた。これが、本篇の中心をなす漁場の問題で、「江戸近辺海川」というのが、どこまでを指すのか、結局都合よく解釈すれば、どうとも解釈出来る点にある。これの解釈を佃島漁師達が実に広い意味にとり、遥かに江戸内湾をこえ、伊豆方面にまで進出して漁猟を行なっても、この「御墨附」を笠にきて、何とでも申し開きができたわけである。
そこに、白魚漁業ばかりか、一般漁業に関しても佃島漁師達が、由緒を理由づけて、他浦々漁場への侵入進出があったことは否定できない。
内湾各浦漁場との紛争がまき起るたびに、佃島側は何かにつけて、この「お墨附」をもち出し、漁場侵入問題の裁定に勝利を得るといった事件をくりかえして来た。
これは明治維新になって、すべて御破算になったとはいえ、新政府、いや東京府としても、完全に黙殺することは出来なかった。何かにつけて佃島を庇護する処置―白魚漁場の保護が、彼等の嘆願という形をとって行なわれた。皇居への白魚献上もからんで、明治十二年、佃島の白魚漁業特権の復活が認められた。そこに維新後の内湾漁業の大きな問題点があった。
ここでは佃島を中心にした漁場紛争の歴史を概説的にのべてみた。
内湾漁業の浦々の紛争については羽原又吉氏の「日本漁業経済史」の中巻二に関東から江戸内湾の漁業について、紛争などもいろいろのべてあるし、また横浜市水産会の「東京内湾漁業史料」をみれば、かなり詳細な史料がそこにのっている。全般的には「東京都内湾漁業興亡史」も出ている。そうしたことから、ここでは、佃島白魚漁業についての漁場争いを中心にし、内湾浦々との紛争といったものに的をしぼってのべて、佃島の人口とか民俗とか生活面に波及することを、ことさら避けた。
他の浦々の漁場紛争については、それらの著書を参考にしていただきたい。佃島のみに重点をおいたのは白魚という特別な江戸の名物の魚の献上、御菜肴の納入といった幕府との結び付きがあったことによるが、やはり、当館所蔵の東京府文書の佃島関係の史料は他の著書にはあまりのっていないという点もあったからである。佃島については、その後、明治大学の萩原龍夫氏の調査報告も出、慶応大学の社会学科の調査報告や「佃島の今昔」も出ている。これらも、もちろん参考にしたが、ここでは府の文書を中心にして、漁場紛争に的をしぼり、なるべく史料を前面に出すように心がけた。
本篇の執筆編さんは川崎房五郎が担当した。特に京橋図書館の安藤菊二氏に史料の点でいろいろ御指示をいただいたことを厚く感謝したい。