明治維新後、首都として新らしく出發した東京にとって、安政條約による開港以來の貿易港たる横濱にまさる一大築港を行い、政治教育の都市であるばかりでなく、開港場として産業経済の中心都市としようということは、關係各方面の東京人にとって一つの夢であったといえる。
ここには、その計画を市区改正事業と一つにして、これを實現しようとした、明治東京人の努力を描いてみようとしたのである。
第Ⅰ期を築港計画が明治十八年廃案となるまで、第Ⅱ期を星亨の死によって計画の實施がしぼんでしまうまでとし、それを勢力的に推進した、松田道之東京府知事、星亨という二人の人物を中心に、實らなかった築港計画の悲劇を東京側から眺めてみた。
もちろん、横濱側の反対が熾烈を極めたことはいうまでもない。政府側の困惑も表には出さなかったが讀み進んで行けばわかってくれると思って、つっこんでは書かなかった。
ただ、ここでは星亨死後、しぼんでしまった築港計画に關し、明治三十六年十二月になって歸朝した直木倫太郎が、深水港をもつことが、東京を發展させる最大の事業であることを、時の尾崎市長に提案した、その案についてはふれなかった。
それも隅田川口改良工事にすりかえられて大正に及び、結局直木の卓見ともいうべき深港策はついに實現をみなかった。いくたびか計画案がつくられても、實現しなかった悲願の延長にすぎなかったのである。
しかし東京側は、築港の夢をその後といえども、もち続けたことはいう迄もない。關東大震災から見事に復興した東京、そこに築港論が起るのは當然であった。
満洲事變というものをきっかけに、戦時色濃厚となり、それを一つのポイントとして、遂に昭和八年二月十八日築港施行具體案が決定された。東京に對する横濱の反對はものすごく、港灣局の幹部などは、とても横濱は歩けないと新聞が書きたてるほどだった。昭和十五年の十二月八日、開港反對横濱市民大會が開かれ、東京開港反對同盟が結成されたのは有名な話である。
ついで十一日・十二日と横濱市の各區で區民大會が開かれ、十三日には縣民大會も開催されるといった状勢だった。翌十六年正月からは横濱市長と逓相や蔵相との開港問題に關する會見から、横濱市民代表と政府側との會見といった政治問題としての反對交渉が行なわれ、一時はどうなることかと思うほどだった。しかし「戦時下」ということが幸いして、何とかこの問題を東京側に有利に導かざるを得なかった。日本中の評判になったこの開港問題は十六年五月二十日の東京港開港の日まで、全く大變な騒ぎだったことを覺えている。
當時の市の港灣局庶務課長として、誰よりも苦勞した磯村英一現東洋大學學長にあって、ぜひ當時の模様などを聞いて、ここにつけ加えるべきだったかも知れない。港灣局長大迫元繁さんや磯村さんは命がけと常時いわれたものだった。
東京港開設當時の港灣局は、その後、竹芝棧橋寄りに移転したとはいえ、戦後もなお、しばらく事務をとっていた、その建物のあった場所に、東京都職員研修所と公文書館がいま建っている。編者が公文書館員として、この「品海築港計畫」を書いたことも、まことに奇しき因縁である。
この編は川崎房五郎が擔當した。