江戸という都市は、徳川幕府の所在地として、あらゆる面での幕府の庇護が、かなり市民生活をうるおしていたことは認めねばならぬ。
ことに租税という面において、特にこの点を強く感ずる。
武家の邸は江戸とよばれる地域の六〇%を占めるほど広大でいながら、全く無税であった。
もちろん水道の料金及び修繕費などは組合をつくって各自邸別に出してはいたが、それは税とはいえない。
一方地租税とよばれるものは江戸の町地市街地にもない。江戸は、慶長八・九年の埋立てで日本橋から京橋新橋に至る今のメインストリートが埋立てられ、そこを町地として商人を全国から呼び迎える方針をとった時、幕府は「地子免除」の布告を出して、商業地の発展をはかった。以来、幕府滅亡まで、この方針はつらぬかれ、町奉行支配地域にあっては地租税はなく、税としては店の間口に応じてかかる聞小間の出金があり、町としてのいろいろな経費支出を負担した。その外公役といって江戸に居住する市民の安住に対する義務的返礼としての労働が年幾日と課せられたが、これが享保以降金納となった。これらの両者をひっくるめて町入用といった。これを負担するのは地主家持階級だけであり、地借り店借り連中のあずかり知らぬことであった。しかし地主連中は家主とよばれた差配人を通じてその税負担分を地代店賃にかけるといった仕組みになっていて、これが江戸の市民生活の上での大きな問題になっていた。
こうみてくると、維新政府としては、江戸という巨大都市の再出発ともいうべき、新しい都東京に、町地においては地租という形ではないにしても何等かの形で租税的なものがあるのに、武家地とよばれる地域に一銭の地租税も課せられてないということは、財政難にあえいでいた政府側にとって、がまんの出来ぬことといってよい。そこに財政の上からも武家地というものを一刻も早くなくして、すべて「租税を納める土地」としようとした考えも当然のことといえる。
しかし、これと同時に、武家地が無税で永い間経過したことは、政府支配者側の土地建物はすべて無税なのだという考えが、全く何の疑いもなしに市民側にもうけ入れられたのであって、この点では大きなプラスであったといえる。
本書は、こうした考えを前提として新しい政府のもとで、新たに首都となった東京がどのようにして、武家地を処理し解放していったかを究明したのであるが、広大な地域を占めていた武家地、武家屋敷を上地させ、それを土台として、政府機関が何のトラブルもなしに充分に残された土地建物を占拠することができ、「官員さん」とよばれる政府の役人の多数の住宅を確保できたことによって都市的変貌を、まずそうした面でたやすく成しとげえたこと。これはまことにその後の発展のための好条件を備えていたといえよう。本書が主力をここにそそいでいるのも、それが武家地処理の焦点であったからである。
また東京を中心として、多くの学校や、近代化のための政府の工業或は農業の試験場や実験場をつくる上にも、その他いろいろの面で、初年の政府施設の上に武家地の転用が大きな力となったことは事実であるが、この点は充分に知られていること故、詳細に記述することはさけた。
政府の財政の面からみればこれらの武家地を廃して市街地化し、更にこれを地租税の対照物とした点でも、財政の面に大きなプラスで、地租改正が東京の市街地において、全農村の大幣よりまず第一に行われねばならなかった点でもあった。
しかし一方それと共に、「武家地」は解消されたかに見えたが、意外にも、「新しい武家地」、陸海軍用地が、旧武家地の上に広大な地域を占めてあぐらをかいてしまったことも事実である。
そしてこの新しい武家地である軍用地の問題は戦後の今日にもちこされ、解放地に住宅の団地や学校病院などが出来て、旧来と面目を一新した所も少くない。これこそ終戦後行われた大きな事件といってよい。
本書の編さん執筆は川崎房五郎が担当したが、引用した史料・文書は都政史料館が所蔵している東京府文書が大部分であったため、布告等は引用文書名をほとんど省略した。この点は諒とせられたい。