資料解説~ 新鮮な鮎を届けたい!

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 この資料は、明治4年(1871)に民部省土木司(みんぶしょうどぼくし)が作成した「鮎置場一件」という簿冊に綴られた文書です。明治政府の太政官に関する文書は、明治6年5月の皇居の火災によりその多くが焼失したため、初期明治政府の公文書として貴重な資料だといえます。これは、土木司が管掌していた玉川上水関係事務がのちに東京府へ移管されることとなったことから、災禍を逃れ今日まで引き継がれてきたものと考えられます。

 今回取り上げるのはこの簿冊のうち、明治3年8月に(吉田)平三郎と(大森)覚右衛門という人物が土木司に提出した願書です。日本橋の魚問屋は、江戸時代には幕府の御用を務めていましたが、明治元年九月、新政府より天皇への魚精調進御用(ぎょせいちょうしんごよう)を命じられました。明治維新後も、政治の中心地が引き続き江戸・東京に置かれたことで、近代以降は皇室への鮮魚の納入を担うこととなったのです。

 この願書によれば、吉田と大森は御魚調進方(おさかなちょうしんかた)に任じられ、鮎を納めることとなっていました。特に暑い時期には、鮎の鮮度を維持することが難しいものの、宮内省内膳司からは風雨で洪水が発生した際であっても支障なく上納すべきことを指示されているとのことです。そのため、以下の2点について願い出ることとなりました。

 一つは、玉川上水の水源である羽村と四谷大木戸の水門内への生簀(「活洲」(いけす))の設置についてです。多摩川で捕れた鮎を羽村で生簀に囲い入れ、それを船尾へと繋ぎ、上水を下って四谷大木戸に設置した生簀へと移すことで、御用に応じて鮮度の良い鮎を納めることができると述べています。

羽村に設置された生簀
羽村に設置された生簀

 二つ目は、宮内省内膳司より下賜された「御用」の幟(のぼり)を生簀の設置場所と運搬船に建てたいという旨についてです。

 しかし、この願書は土木司によって却下されました。その理由は、玉川上水での生簀の設置が通船の支障となりかねないためというものでした。この当時、玉川上水では物資や人の運送手段として通船事業が行われていました。現代の私たちにとっては、上水道を日常的に物資輸送船が運航していたことはなかなかイメージし難いかもしれませんが、鮎の生簀を船で運送するというのは、まさにこの通船事業に便乗したアイデアだったのです。しかし、通船の本来の目的は、多摩地域と東京を結ぶ輸送の利便性の向上にありました。そのため、土木司は生簀の設置が上水管理上にも問題があると回答したのです。なお、この通船事業は水質汚染等が問題となり、明治3年4月から明治5年5月にかけての約2年という期間で終了しています。

 ところが、その後一転して生簀の設置は認められます。これは、前の願書が却下されたことを受けて、宮内省が民部省に直接掛け合ったことがきっかけでした。民部省は、これを受けて改めて内容を精査したところ、願書にあった生簀のサイズであれば問題ないことが分かったため、魚問屋から再度願書を提出するよう宮内省へと回答しています。実は、土木司の役人のなかには、このような業務多端の時節柄に鮎のため生簀を設置したいという願い出そのものが奢侈である、との意見も出ていました。それにもかかわらず、宮内省から再考を迫られたことで決定を覆したことは、願書の採否が内容如何ではなく、極めて権威的な判断によってなされていたことを示唆しています。

羽村の生簀設置場所(一部加筆)
羽村の生簀設置場所(一部加筆)

 その後、吉田と大森は土木司の指示通りに改めて願書を提出しました。これと同時に、生簀が置かれる羽村では、設置場所についての現地見分も行われています。見分の結果、上水の二の水門内は急流であり、また通船口も開かれているため、最終的には二の水門から羽村橋へ五十間下った場所に設置されました。こうして願書の内容はようやく許可されましたが、土木司は魚問屋に対して生簀および物揚場とも願い出たサイズを超えないこと、そして他船へ権威がましく振舞わない旨の請書を提出させています。あくまで建前上は、御用よりも上水の通船が第一とされたわけです。

四谷大木戸の生簀・揚場設置場所(一部加筆)
四谷大木戸の生簀・揚場設置場所(一部加筆)

 宮内省の鶴の一声により、生簀の設置は実現されました。玉川上水の通船を利用することで、皇室により新鮮な状態で鮎を届けるというアイデアは画期的であったといえるでしょう。この鮎上納がいつまで続いたのかは不明ですが、吉田については明治11年以降も魚精調進御用を務めていたことが確認できます(『日本橋魚市場沿革紀要』)。鮎以外でも、このような生簀を活用した御用魚の上納があったかもしれません。夏の風物詩ともいえる鮎ですが、近代以降宮内省は各地に鮎漁の御猟場を指定するなど皇室でも珍重されました。

主要参考文献・資料

  • 『日本橋魚市場沿革紀要』(横須賀海軍軍需部衣糧研究班、1936年)
  • 岡本信男・木戸憲成『日本橋魚市場の歴史』(水産社、1985年)
  • 玉川上水通船研究会編『玉川上水通船史料集』(㈶たましん地域文化財団、1998年)
  • 「明治二巳年 同三午年 明治四辛未年 正月ヨリ 日記」(東京都水道歴史館所蔵、資料ID:K0012)
  • 「明治二巳年同三午年 明治四辛未年 正月ヨリ 文通留」(東京都水道歴史館所蔵、資料ID:K0062)

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