明治東京異聞-トウケイかトウキョウか-東京の読み方
かつて、東京が「トウケイ」と呼ばれていたことがあったと聞きましたが、本当ですか?
一国の首都に二つの読み方。ちょっと意外なこの事実を追求してみると、人々が明治という新しい時代にどのように向き合ったか、その多様性が浮き彫りになってきます。
「トウケイ」読みにこめられた心意を読み解いていきましょう。
「東京」という語彙について
今日、日本の首都東京を「トウケイ」と呼ぶことは、まずないだろう。ただ、明治初年から二十年代ごろまでは、「トウキョウ」とともに「トウケイ」という呼び方も存在した。
もともと「東京」という語彙自体は、「東の方にある都」という意味で、中国後漢の洛陽、あるいは北宋の開封をさし、西京長安に対する呼称として用いられた。
「京」には「キョウ」のほかに、「京師(ケイシ)」のように「ケイ」と読む場合がある。より専門的にいえば、「キョウ」は呉音、「ケイ」は漢音での読み方である。
呉音とは、古代中国の呉の地方(揚子江下流)から伝来した音で、多く僧侶により用いられた。「行=ギョウ」とする読み方である。また漢音とは、唐代長安(今の西安)地方で用いられた発音で、遣唐使、留学生などによって奈良時代・平安初期に輸入された。「行=コウ」とする読み方である。こちらは、主に官府や学者に用いられた。
式亭三馬『浮世床』のなかに、漢字の呉音と漢音に触れた場面がある。髪結床へやってきた儒者孔糞が、世事に疎いにもかかわらず博識ぶりを誇示する場面である。
咄家(はなしか)ゝゝと何でも家(か)の字さへ付ればよいことと思ふが、咄家(はなしか)と云ては湯桶訓(ゆとうよみ)だ。咄(はなし)は訓なり。家(か)は漢音だ。呉音では家(け)とよむてな。都て儒学は漢音、国学は呉音でよむが、又仏氏(ぼうず)の方なども呉音でよむ。(中略)すでに古方家(こほうか)後世家(こうせいか)は漢音、二条家(にでうけ)万葉家(まんえふけ)は呉音で唱へる。是等の事を弁へぬとは、ハテ残念閔子騫(びんしけん)
同じ漢字を同じ意味で用いる場合であっても、呉音で読むか、漢音で読むかは、学問の系統により、それぞれに読みならわし方があったことがうかがえる。『浮世床』の儒者孔糞は、壁にはりつけてある寄席のちらしを見て、「今昔物語(いまむかしものがたり)」を「コンセキブツゴ」、「朝寝坊夢羅久(あさねぼうむらく)」を「チョウシンボウボウラキュウ」と漢音で読み、勘違いしたうえで小難しく講釈してみせる、その滑稽さのなかに、儒者は漢音を用いるという慣例が見てとれる。
たしかに、江戸時代の漢学者太宰春台は、『和読要領』のなかで「長安ヲ西京(セイケイ)西都ト称シ、洛陽ヲ東京(トウケイ)東都ト称ス」と、京の字を漢音で読んでいる。また一方で、『日葡辞書』では、東方の都の意味で「Tôqio」の語が収録されている。
このように、日本で「東京」が地名となる以前から、「東方の都」という意味での「東京」という語彙は存在した。そして、「京」には漢音「ケイ」、呉音「キョウ」と二通りの読み方があり、学問の系統によって、漢音呉音をそれぞれ使い分ける慣例があった。こうした背景から「東方の都=東京」の読み方は一定せず、「トウケイ」とも「トウキョウ」とも読みならわされていたであろうと考えられるのである。
地名「東京」はどう読まれたか?
慶応四年(一八六八)七月十七日、「万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス」と天皇親政を掲げた詔書が出され、そのなかで江戸は「東国第一ノ大鎮、四方輻輳ノ地」であるとして、「自今江戸ヲ称シテ東京トセン」と、江戸は東京と改称された。そして、それまで京都を御座所とした天皇は東京へ行幸し、そのまま居続けた結果、事実上の遷都が行われた。こうして「京=みやこ」は東へ移ったのである。
このとき、江戸は東京と称することとなったが、そこに振りがながあるわけでもなく、読み方について「トウキョウ」「トウケイ」のどちらを採用すべきかについては、根拠となるような法令が出たわけでもなかった。
ここで、明治初年の小説に「東京」が登場する場合、そこに付された振り仮名に注目すると、「トウキョウ」読み「トウケイ」読みとも、それぞれ次の諸例をあげることができる。
「トウキョウ」読み
- 昨日の手紙の中に書いてあつた東京(とうきやう)の景況(あんべい)を見ちやア(総生寛『西洋道中膝栗毛』明治三~九年)
- 大江戸(おほえど)の。都(みやこ)もいつか東京(とうきやう)と。(坪内逍遙『当世書生気質』明治十八年)
- 此四方四里余りの東京(とうきやう)ハ一面に煉瓦の高楼となり(末広鉄腸『雪中梅』明治十九年)
「トウケイ」読み
- 今東京(とうけい)へ帰つてきて見ると(仮名垣魯文『安愚楽鍋』明治四~五年)
- 文三だけは東京(とうけい)に居る叔父の許へ引取られる事になり(二葉亭四迷『浮雲』明治二十年)
- あゝ今の東京(トウケイ)、昔の武蔵野。(山田美妙『武蔵野』明治二十一年)
さて、ここで「東京(とうけい)」が多用されている小説に注目してみたい。関連部分を抜き出してみると、次のようになる。
- 諸方へ借りも大きく出来、迚も只では此地に居られず、最期と決して今一戦、是で敗北すれば、どうせ東京(とうけい)には居ぬ覚悟、
- 少しの間身を隠し、余熱(ほとぼり)が醒めてから東京(とうけい)へ、再び出んと考へをつけ
- イヤモウ、東京(とうけい)の町住ひは火事場か戦場に居ると同じで雑踏(ごたつき)を極めますより、折角のお出(いで)の砌(みぎ)りもお搆ひ申さず、兎角東京人(とうけいじん)は情(じやう)が薄く在所の方(かた)の情の厚い御目から驚ろきなさるほどでござりませう、へゝへゝと空笑(そらわら)ひ、自分に当つけられた事を東京人(とうけいじん)一般へ押し 塗(なす)ツて自分の荷を軽(かろ)くする分別、
- 只居食ひでは気の毒なりト云ツて、拭掃除の働らきも狭き家なれば用といふほどにはならず、是では寧(いツ)そ奉公をと口を尋ねても、東京者(とうけいもの)で中年と来てハ何か仔細が有る奴と危ぶみて、固い家(うち)では否(いや)がりて目見えもさせねば、腕を見せて取込まうといふ場合もなく、空しく半月ばかりを送くりしが
(以上、饗庭篁村『当世商人気質』三の巻 明治十九年 便宜上、適宜読点を補った)
東京で相場に失敗し、大阪に流れついた男の話である。「トウケイ」読みとともに、当時の「東京人」がどのように見られていたか、その一端がうかがえる話である。
この作品のほかにも、「トウケイ」読みを多用する作者である饗庭篁村は、安政二年(一八五五)江戸下谷竜泉寺の質屋の五男に生まれた。少年時代、見習いとして住み込んだ日本橋の質屋は、二階が貸本屋であったためその本を読みあさり、雑学の基礎を築いたという。その後、読売新聞の日就社へ入社し、編集記者として活動する。明治二十年代に入ると、根岸に居をかまえ、根岸派の重鎮となっていく。根岸派とは、明治二十年代、東京の根岸付近に在住した旧派文人たちの一団のことで、一時期、幸田露伴なども参加していたという。
このように、明治初年から二十年代頃までは、「トウキョウ」読みも「トウケイ」読みも混在しており、小説家のなかには、積極的に「トウケイ」読みを採用するものがあったことがうかがえる。
「トウケイ」をめぐる証言
江戸風俗考証の分野で足跡を残した三田村鳶魚は、「トウケイ」読みについて、次のように触れている。
明治二十年頃までは、頑強にトウケイという老輩が多かった。さすがに幕府が瓦解して、江戸が吹き飛んだあとへ、遠国他国から来た人間ばかりが幅をする東京が出来たのは、感慨に堪えなかったろう。京の字をケイと読んで、京都の京の音を逃げる、ケフと読んでもキョウと読んでも上方臭い、そこを嫌ってトウケイ、無理にもそう読んで、鬱憤を霽らすのだったろう。
これは、明治の戯作者・南新二について、「東ケイといった中の一人に相違ない」と評している文章の一節である。鳶魚の説明によれば、南新二とは南新堀二丁目に住居したことによるペンネームで、本名は谷村要助という。幕府の御数寄屋坊主の家に生まれて柳営の御茶道を勤めたのち、戊辰戦争にも参戦したという経歴の持ち主である。こうした、江戸に対する執着、旧幕府への追慕の情から、「京=キョウ」という上方風を嫌い、「京=ケイ」と読む、頑強な「ご老輩」が存在したことを記している。
他方、『東京繁盛記』をはじめ、東京風俗に関する随筆・評論を多数残した画人、木村荘八は、次のように述べている。
東京がいつ帝都となり又「東京」という名になったか、ということは、衆知の八十年来の史実で・・今さらぼくが喋々するまでもない・・今では京都を西京という人も、その習慣もなくなったようだが、この「西京」こそは、新「東京」に対して、明治初年ごろに庶民の間で旧都を呼びならした、昔をいとおしむ一つの愛称であっただろう。
東京もその発音は正規の読み方をされずに「とうけい」となまって呼ばれる場合が少なくなかった。これも今ではそう呼ぶ人も習慣もなくなったであろう。
「トウケイ」というのはなまった読み方であって正規の読み方ではない、今ではそう呼ぶ人も習慣もなくなった、というのである。同じく「トウケイ」読みに触れた箇所であるが、鳶魚とはその位置づけ方が異なっていることが読みとれよう。明治三年(一八七〇)、八王子千人同心の家柄に生まれ、維新後にかつての御家人の居住区下谷御徒町で少年期を過ごし、終生幕臣の末裔(まつえい)であることを誇りにしていた鳶魚と、明治二十六年(一八九三)生まれ、文明開化謳歌の明治中期に、開化の中心地日本橋で、商人の子として成長した荘八。「トウケイ」読みに対する二人の温度差は、彼らの世代差によるのと同時に、それぞれの生まれ育った環境が、少なからず影響しているようで興味深い。
歴史としての「トウケイ」読み
東京は「トウキョウ」「トウケイ」の二通りに読まれ、旧幕時代をしのぶ人の中には「トウケイ」派が多かったというわけだが、いつしかそんな風に呼ぶ人はいなくなり、「トウキョウ」が正規な読み方として位置づけられていった。明治三十年代に入り教科書が国定となった際には、その国語教科書において「東京」の振り仮名は、「トーキョー」と統一的に表記されている。
旧幕時代をしのぶ頑強な「ご老輩」たちの世代が終わり、それに伴い「トウケイ」読みが淘汰されていったのも自然の摂理といえようか。今日では、「トウケイ」はすっかり死語となってしまったが、開府四百年をむかえ、あらためて「トウケイ」読みにこだわり続けた人々に思いをはせてみると、新旧入り込みの当時の諸相が浮かびあがってくることであろう。
明治4年発行の築地居留地「地券」
- 写真1-A
- 明治4年発行の築地居留地「地券」:資料情報へのリンク
- 題字が "FOREIGN SETTLEMENT,TOKEI" と印刷してある。
- 写真1-B
- 同上、知事署名拡大
- "Tokeifu Yuri Kimimasa(東京府由利公正)"とある。
明治9年発行の築地居留地「地所証文」
- 写真2-A
- 明治9年発行の築地居留地「地所証文」:資料情報へのリンク
- 写真2-B
- 同上、知事署名拡大
- 題字は、TOKEIだが、知事の署名は、"Kusumoto Masataka TokiofuGon Chiji(楠本正隆東京府権知事)"となっている。
明治20年発行の築地居留地「地券」(英文)
- 写真3-A
- 明治20年発行の築地居留地「地券」:資料情報へのリンク
- 題字が"FOREIGN SETTLEMENT,TOKIO"となっている。
- 写真3-B
- 同上、知事署名拡大
- "Takasaki Goroku Tokiofu chiji(高崎五六東京府知事)"とある。
掲載画像の地券が綴じ込んである公文書の冊子名と請求番号
東京府文書「雑件」
- 請求番号
- 305.G6.08
参考文献
- 山口仲美『山口仲美の言葉の探検』(1997年、小学館)
- 飛田良文「漢語の読みと同音語」、「ことば」シリーズ八『和語漢語』(1978年、文化庁)
- 飛田良文「とうきょう(東京) とうけい(東京)」(『講座日本語の語彙』第11巻 語誌Ⅲ、1983年、明治書院)
- 小木新造『東亰時代』 (1980年、日本放送出版協会)
- 新編日本古典文学全集80『洒落本 滑稽本 人情本』(2000年、小学館)
- 明治文学全集26『根岸派文学集』(1981年、筑摩書房)
- 明治文学全集別巻『総索引』(1989年、筑摩書房)
- 『三田村鳶魚全集』第17巻(1976年、中央公論社)
- 『木村荘八全集』第4巻(1982年、講談社)
- 『日本教科書大系』近代編第6巻 国語(3)(1978年、講談社)