資料の解読 ~『鮎置場一件 明治四辛未年』
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【解読文】
乍恐以書付奉願上候
一御用魚納人惣代本小田原町組安針町森吉地借
魚問屋平三郎品川町裏河岸健蔵地借覚右衛門
右両人奉申上候私共儀御魚調進方蒙仰冥加
至極難有仕合奉存候然ル処御用品之内鮎魚之儀
別而御用多之御品ニ付暑気之時節魚症分保兼
且者風雨満水等ニ至り候而も御差支為無之活鮎
調進可仕旨内膳司御役所ニおゐて被仰渡依之
武州玉川御上水源羽村二之御水門内江幅三尺
長六尺之活洲壱ツ四谷大木戸御水門内江幅三
尺長四尺五寸之活洲壱ツ居置四谷之方者右活洲
際江幅三尺長八尺杭四本相建候揚場壱ヶ所補理
日々漁業之鮎生分相撰羽村活洲江囲置是を
前同断活洲江入荷物運送之船艫之方江繋留
壱艘ニ而引下シ四谷活洲江移シ置御用之時々相
納候様仕度左候ハヽ御差支等有之間敷奉存候
依之右御上水御堀内別紙絵図面朱引之場
所江活洲居置右両所幷引下シ候舩江此度
内膳司御役所ゟ御用御幟御下ケ渡相成候ニ付御用
弁之ため右御幟相建申度何卒両様共御聞済
被成下置候様此段奉願上候以上
本小田原町組
安針町森吉地借
御用魚納人惣代
明治三午年八月廿四日 平三郎(印)
地主代 嘉右衛門(印)
品川町裏河岸
健蔵地借
御用鮎取扱人
鮎問屋
覚右衛門(印)
地主代 政 吉(印)
土木司
御役所
【読み下し例】
恐れながら書付をもって願い上げ奉り候
一御用魚納人惣代本小田原町組安針町森吉地借
魚問屋平三郎品川町裏河岸健蔵地借覚右衛門
右両人申し上げ奉り候、私共儀御魚調進方仰せ蒙り冥加
至極有り難き仕合せに存じ奉り候、然る処御用品の内鮎魚の儀
別して御用多の御品に付き、暑気の時節魚症分保ち兼ね
且つは風雨満水等に至り候ても御差支これ無きとして活鮎
調進仕るべき旨内膳司御役所において仰せ渡され、これに依り
武州玉川御上水源羽村二の御水門内へ幅三尺
長六尺の活洲壱つ、四谷大木戸御水門内へ幅三
尺長四尺五寸の活洲壱つ居置、四谷の方は右活洲
際へ幅三尺長八尺杭四本相建候揚場壱ヶ所補理、
日々漁業の鮎生分相撰び羽村活洲へ囲置、是を
前同断活洲へ入荷物運送の船艢艫の方へ繋ぎ留め
壱艘にて引き下し四谷活洲へ移し置き、御用の時々相
納め候様仕り度く、左候はば御差支等これ有り間敷く存じ奉り候
これに依り右御上水御堀内別紙絵図面朱引の場
所へ活洲居置き、右両所幷引き下し候船へ此の度
内膳司御役所より御用御幟御下げ渡し相成候に付き、御用
弁のため右御幟相建て申し度く、何卒両様共御聞き済み
成し下され置き候様此の段願い上げ奉り候、以上
*1 内膳司(ないぜんし) 明治3年(1870)3月、宮内省に置かれ、天皇の食事および天皇から臣下に賜る食事のことをつかさどった役所。同6年7月廃止。
*2 四谷大木戸御水門(よつやおおきどごすいもん) 玉川上水は、水源地羽村から43㎞の開削水路で四谷大木戸(新宿区内藤町)に至り、その先の江戸市街へは配水管(石樋・木樋)で通水した。配水管に入る直前には四谷大木戸水門があり流量を調節していた。
*3 船艫(せんろ) 船の後部。船尾。
*4 土木司(どぼくし) 明治初期に土木行政を管轄した部署。上水にかかわる事務を担当した。はじめ太政官の民部官に置かれ、明治2年7月の民部省設置に伴い同省へと引き継がれた。明治4年7月、工部省へと移管され土木寮と改称した。同年10月には、大蔵省へと移管となり、明治5年5月、上水行政全般は東京府へと移管された。