資料解説~ 『順立帳』から見る「天酒頂戴」

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 明治元年(1868)9月20日、明治天皇が東京へ向けて京都を出発します。出発に先立つ9月19日、東京におかれた政府機関である鎮将府(ちんしょうふ)から、品川宿と江戸城までの間の沿道を整備するよう申し入れがありました。これをうけて、東京府では21日、東京府内組々世話掛の名主らに対して、沿道の整備や火元に入念に注意すること、水溜桶などを用意して防火のために風が激しいときには往来や屋根のうえに打ち水をする準備をせよと命じます。 

 そして品川十八ケ寺前から呉服橋御門までの町々名主に対しては、十四か条の心得を布達します。その内容は、往来の横道には竹矢来(たけやらい)か竹木戸を作ること、盛砂をしておくこと、到着が夜になった時は町屋の軒下に提灯を付けること、湯屋・豆腐屋・菓子屋などの火を使う店は休業することなど細かいものでした。東京府全域には、町の裏々まで見回り、火の元の用心や、怪しい人物がいれば捕り押さえるようにと触れを出しています。

 10月13日に江戸城西の丸に入った天皇は、江戸城を「東京城」と改称し、皇居と定めます。つづけて17日には、西の地方と旧幕府の本拠地であった東の地方を区別することなく平等にあつかい、内政・外政を裁決するという旨の「万機(ばんき)親裁(しんさい)の詔(みことのり)」を布告し、為政者の交代を印象づけました。そうしたなか、27日には東京市民一同に酒を賜る旨の御沙汰が出されます。

 これをうけて、東京府は東京市中に配る酒の準備に取り掛かります。『順立帳』を紐解くと、鹿嶋清兵衛をはじめとした4人の酒問屋が750樽ずつ、合わせて3,000樽もの酒を納入していることがわかります。銘柄をみると「日本橋」「両国橋」といった江戸ならではの銘柄や、「嘉久」の字の下に「□」を描いて銘柄を表現しているもの、「正宗」といった今日でも目にする銘柄が見えます。

 こうして集められた酒は、11月4日に東京市民に下賜されることになりました。

 さて、『順立帳』には酒の下賜をめぐる明治政府と東京府のやり取りが記録されています。11月2日、東京府は、酒を下賜する際に一部を土器(かわらけ)や瓶子(へいじ)に入れて渡すため、11月3日の昼までに、東京府庁へ土器や瓶子と「元酒」を運ぶよう、新政府側の担当者である用度司に依頼しています。用度司は、東京府への返答のなかで「元酒」の意味するところついて不明な点があるとして、酒を瓶子に入れる際に新政府が用意した「元酒」に東京府側で別の酒を加えたとしても「朝廷」から東京市民に下賜するという趣旨に間違いないか質問がなされました。これに対し東京府は、「朝廷」から下賜される趣旨で「町人」へ渡すと述べ、用度司の見解に相違ない旨を返答しています。このやり取りからは、新政府が為政者の交代を東京市民へアピールすることに腐心していたことが垣間見えます。

 新政府の思惑はともかく、酒を受け取った東京市民たちは、11月6日・7日には家業を休み、「天酒頂戴」、「天盃頂戴」、「御酒頂戴」などと称してこのイベントを祝いました。神田の名主であった斎藤月岑はこの時の様子を、昼夜を問わず飲み明かし神事のように3、4日間は賑わったと記録しています(『増訂武江年表』)。

 当時の様子は錦絵にも描かれています。三代目歌川広重の錦絵「御酒頂戴」からは、幟を立てて祭礼気分で酒を飲み、仮装して踊り明かす東京市民の様子がうかがえます。

歌川広重(三世)画「御酒頂戴」
歌川広重(三世)画「御酒頂戴」

主要参考文献

  • 金子光晴校訂『増訂武江年表 第2(東洋文庫118)』平凡社、1968年
  • 東京都編『東京市史稿 市街篇 第五十』臨川書店、2001年
  • 東京百年史編集委員会編『東京百年史 第2巻』東京都、1972年
  • 佐々木克『江戸が東京になった日』講談社、2001年
  • 小林信也「東京のなかの江戸―東京府文書『順立帳』から―」『東京都公文書館だより』第1号、2002年

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