資料解説~芸娼妓解放令後の飯盛女―娘・よねの行方を尋ねて

 この資料は、下谷通新町(したやとおりしんまち)の高橋善蔵という人物が、飯盛女として働く自分の娘・よねを引き取るにあたり、新治(にいはり)県への添翰(そえかん。てんかんとも。添え状)を作成してくれるよう東京府に願い出ている文書です。

 飯盛女(めしもりおんな)は、はじめにも触れたとおり、街道沿いの宿々で給仕や雑用に従事し、さらには売春をもおこなった女性たちです。「食売女」や「飯売女」、「宿場女郎」など、さまざまな呼称がありました。飯盛女を旅籠(はたご)に置くことが許されるようになったのは、江戸中期頃の享保3年(1718)です。宿場助成の一環として江戸十里四方の宿屋一軒につき2名の飯盛女を抱え置くことが許可され、他宿も基本的にはこれに準じることとなりました。ただし、江戸幕府は公認の遊廓以外での売買春を認めていません。したがって飯盛女はあくまで接客をする女性として許されたのですが、実際には売春をおこなっており、幕府もそのことを「黙認」していました。

 ここで掲載した文書からは、高橋善蔵の娘・よねが、明治4年(1871)8月から飯盛女として奉公勤めをしていたことがわかります。父・善蔵の住まいである下谷通新町(したやとおりしんまち)は現在の東京都荒川区南千住、それに対してよねがはじめに勤めたのは下総国(しもうさのくに)守谷宿(もりやしゅく)で、現在の茨城県守谷市にあたります。南千住から守谷宿までは約40km(十里)、徒歩で一日がかりの道のりです。南千住のあたりには千住宿などの大きな宿場もあり、なぜよねがわざわざ遠く離れた場所で奉公をすることになったのかはわかりません。あるいは善蔵の方が引っ越しをしたのかもしれませんが、いずれにせよよねを奉公に出した理由は「家事追々不如意(ふにょい)に相成り」とあり、家計が苦しくなってのことでした。

 しかし、よねが飯盛奉公に出ておよそ一年後、善蔵はよねを引き取りにいくことになりました。娘を奉公に出さなくて良いほど家計が上向いたからかというと、そういう訳ではありません。資料にはその理由について「今般有り難き御布告の趣につき親元へ引き渡し候趣承知仕り…」と書かれています。すなわち「御布告」があったために、善蔵はよねを迎えに行くことになったのです。

 ここでいう「御布告」とは、明治5年(1872)に出された「芸娼妓(げいしょうぎ)解放令(かいほうれい)」と呼ばれる一連の布達です(太政官布告第295号・司法省達第22号)。これは文字通り芸妓(芸者)や娼妓(遊女)等の奉公人を「解放」するもので、芸娼妓等に借金返済の義務のないことや、人身売買の禁止が通達されました。これを機に借金で縛られていた多くの芸娼妓が遊廓を後にし、旅籠で奉公をしていた飯盛女もまた、親元へ引き取られることになったのです。

 さて、解放令を受け守谷宿をわざわざ訪れた善蔵ですが、娘が勤めているはずの坂本平吉の旅籠屋に、よねの姿はありませんでした。なんと善蔵が知らない間に、よねは中村宿の泊(とまり)屋(宿屋の書き違いか)に「宿替(やどがえ)」をさせられていたのです。

 宿替は、住替(すみかえ)ともいい、奉公人が勤め先をうつることです。遊女や飯盛女等の「奉公証文」には「どこへ宿替になっても文句はいいません」との条項があり、しばしば抱え主の事情で他の店へ売り渡されました。

 よねが住み替えたのは、新治(にいはり)県管下の常陸国(ひたちのくに)信太(しだ)郡の中村宿。新治県は明治初期、茨城県・千葉県の一部に置かれた県です。その管下にあった信太郡(しだぐん)は、掲載の資料では「何内郡」と書かれていますが、おそらく善蔵はこのあたりの地名をよくわかっておらず、隣接する河内郡と書こうとして、さらに「何内郡」と書き間違えたのでしょう。

 中村宿は水戸街道沿いの宿場で、現在の茨城県土浦市中にあたります。街道でつながってはいるものの、守谷宿からはまた随分と離れた場所です。南千住から考えればなおのことですが、遠い道のりをたどってきた善蔵の災難はなおも続きます。

 ようやく中村宿に到着したかと思えば、よねの引き渡しについては新治県庁に掛け合うべきことをよねの抱え主・飯田六左衛門から伝えられたのです。幸い新治県庁(土浦城本丸御殿)はそう遠くありませんでしたが、仕方なく県庁を訪れたら訪れたで、今度は「東京府からの添翰(添え状)がないとよねは引き渡せない」と言われてしまいました。そうして泣く泣く引き返し、東京府からの添翰を願ったのがここで掲載した文書という訳です。

 こののち善蔵の苦労は実を結び、12月初めには無事よねを引き取ることができました。他の例をみてみると、手順にのっとってもすぐに娘を引き渡してもらえなかったり、たらい回しにされた挙句に路銀(旅費)が尽きてしまうなんてこともあったとか。それを考えれば、善蔵は娘を連れ戻せただけ良かったのかもしれません。もっとも、親元に帰りたがらず逃げ出す娘たちもいたようですから、引き取られることが必ずしも幸せだったとは限りませんが。

 さて、今回は飯盛女の「解放」をめぐる資料をみてきましたが、彼女達がこの時「解放」されたからといって、これ以降買売春の制度がなくなった訳ではありません。明治5年の解放令はあくまで明治政府が諸外国への体面を保つために急場しのぎで出されたものに過ぎず、すぐさま新たな形で買売春が許されるようになりました。遊女たちは自らの意思で売春をする娼妓とされ、遊女屋や抱え主は娼妓に営業のための場所を貸す「貸座敷」業であるとする新たな論理が作り出されました。女性の身体を商品として管理する人権侵害は継続されていったのです。貧困のために再び売春稼業を選ばざるを得ない女性も多く、このとき「解放」されたよねも、この後どうなったかはわかりません。

主要参考文献

  • 石井良助「遊女、飯盛等奉公請状」『女人差別と近世賤民』明石書店、1995
  • 宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』同成社、2000
  • 人見佐知子『近代公娼制度の社会史的研究』日本経済評論社、2015
  • 横山百合子『江戸東京の明治維新』岩波新書、2018

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