資料解説~ 「御府内沿革図書」を編む ―地方史料と幕府編さん物の邂逅―

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 まずは、本史料が作成された背景からご説明します。冒頭でも述べたとおり、本史料は「沿革図書」の編さん過程で作成されたものです。編さんを担当したのは江戸幕府の普請方という、主に江戸のインフラ管理や土木に関する業務を請け負った役所で、江戸各地の来歴を調査し、その変遷を文字と絵図に起こす形でまとめられました。

 もっとも、「御府内沿革図書」という書名は通称で、正式には前半の「御府内往還其外沿革図書」15部15冊と後半の「御府内場末往還其外沿革図書」7部26冊に分かれており、さらに後者には文久年間(1861~63)に追加調査された分の「壱之部」3冊が加わります。この書名の違いは対象とする地域の違いによるもので、前者は武家地や町地からなる江戸中心部、後者は村も入り組む場末を対象としていますが、基本的な構成に差はありません。

 「沿革図書」の編さんは文化4年(1807)に老中牧野忠精(ただきよ)の命により開始されましたが、同8年12月、7冊完成したところで倹約令により一時中断されます。天保元年(1830)に老中水野忠成(ただあきら)の命で再開されると、安政5年(1858)に全22部41冊が完成しました。しかし、浅草南部や本郷、本所・深川まで調査が及んでいなかったため、文久元年(1861)から追加調査が開始されました。その成果3冊が加えられたところで、普請方が作事方という主に建築を管轄していた役所に統合されたため、この追加調査は中止されました。さらに、幕府の瓦解によって「沿革図書」編さん事業は再開されることなく終わりを告げました。

 さて、これらの前提をふまえた上で本史料を読み解いていきましょう。本史料を作成した谷山村はちょうど朱引の外側、つまり江戸の外側に位置する村ですが、「沿革図書」の対象地域に含まれていたため、普請方によって調査が行われました。調査内容については普請方より詳細な指示がもたらされており、「御府内御沿革取調書帳(雛形) 海老沢」(請求番号:荏原―330)に書き写されています。

 作成時期を見ると弘化2年(1845)と、ちょうど「沿革図書」の編さん事業が再開されていた時期に当たります。作成者は村の名主の助右衛門と好太郎です。以下、村内での調査事項が書き上げられています。

 項目として立てられているのは、①柳生藩抱屋敷、②土橋(境橋)、③目黒川、④目黒道、⑤林高入新田、⑥死馬捨場の6つです。このうち、谷山村において来歴が判明しているのは②と⑤です。①については来歴不明ながら面積は2畝(約200平方キロメートル)であること、以前よりの屋敷であることが記されています。②は目黒川に架かる橋です。谷山村と上大崎村共同で管理されている橋で、元々は木橋だったものを天保2年(1831)に土橋へ改修したことが分かります。③・④はそれぞれ目黒川と目黒道の幅が記されていますが、沿革に関わる情報は特に書かれていません。⑤では、林が新田に開発され、享保17年(1732)に検地を受けて村高に編入されたことが分かります。⑥の死馬捨場も来歴は書かれておらず、分かるのは2畝という面積のみです。

 こうして各村で書き上げられた調査結果は、「領」ごとにとりまとめて普請方役所へ提出されていたものと推測されます。この「領」とは後北条氏の地域支配の枠組みに由来する、関東特有の地域支配単位です。紛らわしいのですが、特定の領主の支配領域を表すものではありません。南品川宿の名主・利田(かがた)家旧蔵の文書群に残る「弘化二年沿革御調ニ付品川領宿村書上控」(立正大学所蔵・品川歴史館寄託「利田家文書」13―248)には品川領での調査結果が取りまとめられており、この中には文言は少し異なるものの、本史料の内容も反映されています。冒頭で述べたとおり谷山村は馬込領の村でしたが、周辺には上大崎村や桐ヶ谷村など品川領の村が多く複雑に入り組んでおり、関係性も密接であることから品川領での調査に組み込まれたのでしょう。それぞれの一つ書きの右側に付されている朱書きの番号も、品川領内での通し番号に対応しています。

 また、本史料の形態に注目すると、差出人名の下や裏表紙の綴じ部に印が捺されるなど正式な文書として作成されていることから、品川領の担当者へ提出し、取りまとめ完了後に返却されたものと思われます。

 最後に、こうした村での調査の成果が、「沿革図書」編さんにどのように反映されているのか確認してみましょう。「御府内場末往還其外沿革図書十六 三冊之内中 弘化三午年九月調」(請求番号:ZH―720)の「目黒行人坂辺之部」には①の柳生藩抱屋敷に関する記載がみられますが、安永2年(1773)に谷山村の土地を抱屋敷としたことが書かれており、来歴不明とされていた谷山村での調査よりも情報がアップデートされています。これは、他村での調査や普請方役所に残る記録によって抱屋敷の所有時期が判明した可能性が考えられます。また、「御府内場末往還其外沿革図書十六 三冊之内下 弘化三午年九月調」(請求番号:ZH―721)の「松平兵部下屋敷辺之部」には、⑤と⑥に関する記載が確認できます。死馬捨場については立地情報のみの記載となっていますが、新田については享保年間(1716~35)に高入(たかいれ)されたことが書かれており、こちらは谷山村での調査内容と一致する記述となっています。なお、②・③・④のような内容は「沿革図書」には反映されていませんが、普請方より出された調査項目の指示の中には確かに含まれているもので、土木を管轄する普請方の性質上、調査項目に挙げられていたものと推測されます。

資料A・B

 「沿革図書」は江戸府内の土地利用の来歴を調べる上では最初に参照される基本的な史料として、現在でも高い価値を有しています。その背景に注目すると、普請方役人による編さん業務と、その前提となる地域住民からの調査書類の提出によって成立していたことが分かります。「沿革図書」の完成本は2部作成され、1部は江戸城内の紅葉山文庫へ納め、もう1部は普請方の控えとされました。当館に伝来するものは後者で、こうした幕府が作成した江戸の行政に関する史料は、江戸の統治に関わっていた幕府の各役所から、東京を管轄することとなる東京府へと引き継がれました。

資料A・B

 一方、本史料をはじめとする「荏原地域文書」は、地域の歴史を伝える史料として当館が所蔵するものです。元来別々に作成・保管されていた本史料と「沿革図書」の完成本は、奇しくも共に東京都公文書館というアーカイブズ施設の所蔵資料となる運命をたどったのです。

1 『新編武蔵風土記稿』によれば、谷山村は享保5年に検地を受けたとされている。

主要参考文献

品川古文書研究会 編『武蔵国荏原郡品川宿基礎史料集』(品川古文書研究会、2005年)

東京都品川区 編『品川区史 資料編』(東京都品川区、1971年)

品川区立品川歴史館 編『大崎・五反田―徳川幕府直轄領の村々―』(品川区立品川歴史館、2017年)

「解題」(東京市役所 編『御府内沿革図書 第一篇上』東京市役所、1940年)

東京都公文書館 編『御府内沿革図書目録』(東京都公文書館、1973年)

福井保『江戸幕府編纂物 解説編』(雄松堂出版、1983年)

資料情報

  • 「弘化二年八月 御府内御沿革ニ付取調書上帳」(請求番号:荏原-328)
  • 「御府内場末往還其外沿革図書十六 三冊之内中 弘化三午年九月調(帙書:御府内場末往還其外沿革図書 七)」(請求番号:ZH-720)
  • 御府内場末往還其外沿革図書十六 三冊之内下 弘化三午年九月調(帙書:御府内場末往還其外沿革図書 七)(請求番号:ZH-721)

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