このリストに続く史料には、「罪人之親族又ハ知寄之ものより差贈品之儀」と記されています。つまり、懲役場(刑務所)に収監されている受刑者に対し、親族や知人らが一度に差し入れることのできる品物リストでした。この布達は、一八七四年(明治七)一月二五日、懲役場掛より東京府各区戸長へ宛てて出されたものです(「罪人親戚または知り寄りのものより差贈品に付伺済の義懲役場掛より東京府詰各区戸長へ申入 1月25日 品目一覧」)。
懲役場とは、懲役刑、つまり受刑者を拘置して所定の作業を行われる場所のことで、現在の刑務所にあたる施設です。江戸時代、石川島にあった人足寄場は、一八七〇年(明治三)二月に「佃島徒場」と改称されます(『東京市史稿』市街篇第五十一)。そして、七三年二月に「徒場」を「懲役場」と改称することが達せられました(同 第五十四)。こののち、「石川島懲役署」(七六年二月)、「石川島監獄署」(七七年七月)と改称されています(『中央区史』下巻)。
後年になりますが、一八七九年(明治一二)一月の「郵便報知新聞」によると、二六棟の獄舎に二〇〇〇人前後の受刑者が居り、一坪に二人半が割り当てられていました。また、弘化三年(一八四六)に出来た建物で、海辺のために湿気も多く、衛生状態も良くなかったそうです(同 下巻)。
品物の多くは食品で占められ、漬物や乾物といった食事の際に足しになるものや調味料のほか、鮪や鰯などの鮮魚、そして牛肉が挙げられていることが注目されます。江戸時代では、一部を除き、基本的には牛肉は食されていませんでした。幕末になり外国人が居留するようになると、外国人向けの牛肉が供給されるようになります。明治になると、牛肉を食する人も出てきてきますが、一般家庭で食事に供されるようになったのは大正時代ともいわれています。
この当時牛肉は、病気にかかった受刑者への滋養薬として扱われていました。ちなみに、後には、刑務所内での副食物では「牛肉」が最も上等であることから、受刑者や盗人らの間で、刑務所長を指す隠語として使われたそうです(『日本国語大辞典』)。
ほかの史料では、差し入れをする親族や知人が絶えず、休日で懲役場の役人も少ない日には、品物検査が十分に行き届かないことが問題となっています。受刑者を気遣った者だけでなく、なかには「外々へ対し面目に存じ、やむをえず競て」(読み下し文)差し入れを行う者も大勢いたということです。
さらには、一人の受刑者に対して多人数で差し入れを行い、他の受刑者へ「分配賑恤」させる者もいました。数少ない獄中生活の「娯楽」とさせることや、受刑者間の地位に影響を及ぼすことを目的としたものであることが指摘され、弊害が懸念されていました。
これら差入品は「野菜又は魚肉類渾(すべ)て生鮮の侭(まま)」(読み下し文)、つまり〝生もの〟でした。このことが問題を引き起こしたのか、翌年一一月には「差入品定則改訂」が出され、今後は次のリストのように差し入れるよう指示がなされています。
一 魚類 煮物 壱重 一 牛肉 同断 同 一 鶏肉 同断 同 一 煮豆 同断 同 一 野菜 同断 同 一 梅干 同 一 漬物 大根類ハ割裁 同 一 鶏卵 二十 但、生 (後 略)
出典
鶏卵や漬物類を除き、魚類・牛肉・野菜は全て「煮物」、つまり火を通したものでなければならないことが明記されました。二回の夏場を経験し、衛生状態も良くないなかで、食中毒が発生してしまったのでしょうか。 (完)