(史料出典:『養子判元見届一件書留』壱)
急相続奉願候覚 寄合 高五千石 堀 田 錦 弥 寅二十一歳 養方叔父実弟 相続奉願候者 堀 田 幸之助 寅十六歳 右幸之助儀出生之砌虚弱ニ付御届見合 罷在候処此節丈夫ニ罷成候ニ付当八月 十八日丈夫御届申上候 私儀当五月上旬より持病之積気相勝不申候処八月上 旬より時候相中其上九月下旬ニ至浮腫有之候ニ付橘隆庵 山本宗英峯岸春庵薬服用仕針治増田寿得療治 請色々養生仕候得共此節別而相勝不申不食仕次第 草臥相増段々差重本復可仕躰無御座候然処未実 子無御座候ニ付養方叔父堀田幸之助儀相続奉願候 右之外親類遠類同姓異姓遠続之内ニ茂養子可仕 相応之者無御座候若養生不相叶相果候者右幸之助儀 相続被 仰付跡式無相違被下置候様奉願候以上 寛政六甲寅年十一月廿五日 堀 田 錦 弥印 手揮申候ニ付印形 相用候 井伊兵部少輔殿 京極備前守殿 堀田摂津守殿 立花出雲守殿 中川勘三郎殿
急相続願い奉り候覚 寄合 高五千石 堀 田 錦 弥 寅二十一歳 養方叔父実弟 相続願い奉り候者 堀 田 幸之助 寅十六歳 右幸之助儀出生の砌虚弱につき御届見合せ 罷りあり候処、この節丈夫に罷り成り候につき当八月 十八日丈夫御届申し上げ候。 私儀当五月上旬より持病の積(癪)気相勝れ申さず候処、八月上 旬より時候相中(あた)り其上九月下旬に至り浮腫これあり候につき、橘隆庵 山本宗英、峯岸春庵、薬服用仕り、針治増田寿得療治 請け、色々養生仕り候えども、この節別て相勝れ申さず不食仕り、次第 草臥(くたびれ)相増し、段々差重り本復仕るべき体御座なく候、然るところ未だ実 子御座なく候につき、養方叔父堀田幸之助儀相続願い奉り候。 右之外、親類遠類同姓異姓遠続の内にも養子仕るべき 相応の者御座無く候。もし養生相叶わず相果て候わば、右幸之助儀 相続仰せつけられ、跡式(あとしき)相違なく下し置かれ候様願い奉り候。以上。 寛政六甲寅年十一月廿五日 堀 田 錦 弥印 手揮え申し候に付き印形 相用い候。 井伊兵部少輔(直朗、若年寄)殿 京極備前守(高久、若年寄)殿 堀田摂津守(正敦、若年寄)殿 立花出雲守(種周、若年寄)殿 中川勘三郎(忠英、目付)殿
一 病間へ罷通り屏風外ニ着座錦弥江及挨拶且判元 可見届段申達候処屏風内ニ被居候伊東山城守挨拶ニ而 大病故不及挨拶候段且手揮候ニ付添手致候段被申聞候ニ付 承知之旨及挨拶願書へ印形被調肝煎へ被差出肝煎より 自分へ被相越候判元見届候段且病気快気ニ候ハヽ願書 願下之義目出度可取次段且又病気養生有之候様ニ 申達直ニ書院江罷出候此節一類中ニ者一統入頬ニ並居 被申候
一 (中川勘三郎が)病間へ罷り通り屏風外に着座、錦弥え挨拶に及び、且つ判元 見届くべき段申し達し候ところ、屏風内に詰め居られ候伊東山城守(祐政、寄合)挨拶にて、 大病ゆえ挨拶に及ばず候段、且つ手揮え(ふるえ)候につき添手(そえて)致し候段申し聞かされ候につき、 承知の旨挨拶に及び、願書へ印形調えられ、肝煎へ差し出され、肝煎(寄合肝煎松平内蔵允信愛)より 自分へ相越され候。判元見届け候段、且つ病気快気に候わば願書 願い下げの義目出度く取り次ぐべき段、且つ又病気養生これあり候様に 申し達し、直に書院え罷り出で候、この節一類中には一統入頬(いりかわ)に並び居り 申され候