(史料出典:『明治二年十二月 言上帳』)
同日 一 兼房町茂兵衛店仙次郎申上候当十一月中 赤坂氷川下多賀上総介殿御屋敷私江 御買下ケ被仰付候ニ付桑茶植付地平均ニ 取懸候処昨昼四時頃右場所之内ニ差渡し 壱尺余有之候瓶壱ツ堀出し候間改見候処 右内ニ髑髏壱ツ有之候取片付方奉伺候旨 右之仙次郎町年寄五兵衛申来候 右者(挿入)「瓶之侭」取片付申付候間(挿入)「取片付候」 場所可相届旨申付之 右髑髏瓶之侭麻布大泉寺地中 乾之方江葬置候旨同七日仙次郎町年寄五兵衛 申来候
同日 一 兼房町茂兵衛店仙次郎申し上げ候。当十一月中 赤坂氷川下多賀上総介殿御屋敷私へ 御買い下げ仰せ付けられ候につき、桑茶植付地平均(じならし)に 取り懸かり候処、昨昼四つ時頃右場所の内に差し渡し 壱尺余これあり候瓶(かめ)壱つ堀り出し候間、改め見候処 右内に髑髏(どくろ)壱つこれあり候。取り片付方うかがい奉り候旨 右の仙次郎、町年寄五兵衛申し来たり候 右は瓶(かめ)のまま取り片付け申し付け候間、取り片付け候 場所あい届くべき旨これを申しつく 右髑髏(どくろ)、瓶(かめ)のまま麻布大泉寺地中 乾(いぬい)の方へ葬り置き候旨、同七日仙次郎、町年寄五兵衛 申し来たり候
今回は兼房町(現:港区新橋元赤坂2丁目の内)の茂兵衛さんの借家に住む仙次郎さんの訴えです。
明治2年(1869)11月に仙次郎さんは赤坂氷川下にある旗本多賀上総介殿の御屋敷の払い下げを受けました。その土地に桑や茶を植えつけるため、地ならしに取り掛かったところ、昨日(12月2日)昼10時ごろ、地中から差し渡し壱尺(約30センチ)余りの瓶(かめ)一つを掘り出しました。中を改めたところ、瓶の中に髑髏(どくろ)が一つあったので、どう処理したらよいか伺い出ました。届を受けた東京府は瓶のまま片付けるように申し渡し、どこに片付けたかを届け出るよう命じました。どのような縁かはわかりませんが、仙次郎さんは町年寄五兵衛さんと共に、麻布大泉寺の敷地の北西の方へ葬ったと同月7日に届を出しました。
多賀上総介は、高500石取で常陸国真壁郡に知行地を持っていた比較的小身の旗本です。文久3年(1863)抜擢されて小十人頭兼外国御用出役頭取取締(のちに別手組と称し、外国人警護を担当)に任命されたのを振り出しに、慶応元年(1865)長州征伐に加わり、同2年12月には銃隊頭並、翌年歩兵頭に進み、慶応4年銃隊頭から歩兵奉行格にまで昇進しています。また、慶応元年に100石を加増され、さらに御先手格を勤めて足高を受け、総高1500石と3倍の扶持を受けるようになりました。幕末には勝海舟など、低い身分から実力ある人材が抜擢され、活躍していますが、多賀上総介もそうした人材の一人であったようです。菩提寺は広尾の臨済宗祥雲寺です。
幕末期の多賀の屋敷は、赤坂の氷川神社の北側、有馬彦之進の土地(現港区赤坂6丁目5番地辺)を借りて建てられていました*1。その屋敷跡から髑髏の入った瓶が見つかったのです。下図は嘉永3年(1850)の赤坂の切絵図*2です。多賀が借りた有馬の屋敷は氷川神社の北側にありました(下図左上朱線部分)。しかし多賀の屋敷は嘉永3年には麻布市兵衛町にあり(下図右下朱線部分)、その後安政5年(1858)、屋敷替により小日向茗荷谷に移っています*3ので、すでに瓶の内容物が「髑髏」と化していることから考えると、多賀には関係がなさそうです。
江戸の武家の埋葬施設の研究*4によれば、旗本クラスでも甕を棺として土中に直に埋葬することが一般的でした。ただ今回のケースでは、瓶の大きさが直径30センチ余りと小さいことから、被葬者が子供であるか、あるいは頭部のみを埋葬したものか、または改葬したものと思われます。
ともかく仙次郎さんはこれをどこかへ「片付け」なくてはならないのですが、やはり人骨となると片付け先は寺院になりました。麻布の法台山大泉寺は、氷川神社から南へ500メートルほど行った、現在の六本木3丁目4番地辺にありました(上図中央下青線部分)。甲府大泉寺末の曹洞宗寺院で、昭和20年(1945)に空襲で焼失、現在は八王子市に移っています。
さて、仙次郎さんは、なぜ花のお江戸の武家屋敷跡にわざわざ桑や茶を植えたのでしょうか?実は幕末から明治にかけて、江戸東京はかなり衰退した時期があったのです。幕府が文久2年(1862)に海防強化のため、参勤交代制度を緩和したことから、各藩は経費のかかる江戸藩邸を縮小し、大名の妻子や家臣を国許へ帰します。それに伴い、藩邸に雇われたり、江戸に住む武士達の消費で生計を立てていた庶民は暮らしが立ち行かなくなっていきます。それに追い討ちをかけたのが幕府の崩壊です。徳川家が藩地となった静岡へ移ると、旗本や御家人などの半ばが共に静岡へ移住したと言われています*5。その結果、住む人のいない荒れた屋敷があちこちに出現し、盗賊や狐狸の住み家となる有様でした。
そこで第二代東京府知事大木喬任により立案され、明治2年8月に打ち出されたのが「桑茶政策」です。荒廃した武家屋敷の跡地を、開墾して桑または茶を植え付けることを条件に払い下げ、または貸し付けたものです。仙次郎さんはこれに応募したというわけです。桑は当時輸出品として高値で取り引きされていた生糸を生産するために販売できましたし、茶も輸出品としてもてはやされていました。つまり治安悪化の原因となる荒れた武家地を解消すると同時に、衰微した江戸東京の産業振興も狙うという一石二鳥の政策でした。この政策により、明治6年(1873)段階で910万坪余の武家屋敷が桑茶畑となりました。下図は、明治16年(1883)の氷川神社周辺図*6です。武家屋敷の跡地に「畑」「桑」「茶」「桐」などの記載が見られ、桑茶政策の影響が残っていることがわかります。しかし江戸を「東京」とし、首都として整備する方針がとられる中で、桑茶畑も官庁や軍用地へと変貌をとげていくことになります*7。