史料の解読/読み下し/解釈―明治の「言上帳」を読もう その2
(史料出典:『明治二年十二月 言上帳』)
【史料2】
解読文
同日 一 通壱町目町年寄源兵衛申上候町内 御預日本橋目安箱江左之通認候書付 張有之候を今昼九時過見出申候則持参 為御訴申上候由右之源兵衛差添藤兵衛 申来候 天下之大事件難捨置早々此箱 之中御覧在之度候也 右書付取上已来怪敷もの見懸候ハヽ 捕押可訴出旨申付之
読み下し文
同日(明治二年十二月二日) 一 通壱町目町年寄源兵衛申し上げ候。町内 御預かり日本橋目安箱へ左の通り認め候書き付け 張りこれあり候を、今昼九つ時過ぎ見出し申し候。すなわち持参 お訴えの為申し上げ候由、右の源兵衛差し添え藤兵衛 申し来たり候 天下の大事件捨て置きがたく、早々此の箱 の中御覧これありたく候なり 右書き付け取り上げ已来怪しきもの見懸け候はば 捕り押え訴え出ずべき旨これを申し付く
解釈
日本橋の目安箱に不審な張り紙発見(明治2年12月2日の訴え)
今日(明治2年12月2日)の昼九ツ時(12時)頃、日本橋通壱町目(現在の中央区日本橋一丁目)の町内で預かっている目安箱に以下のような張り紙があるのを発見したと同町年寄源兵衛さんと付添として藤兵衛さんが届け出ました。
張り紙には「天下の大事件捨て置き難く、早々にこの箱の中を、御覧いただきたい」と記されていました。
届出を受けて、東京府訴訟掛では怪しい者を見かけたら取り押えよと指示しています。
明治になっても目安箱があることに驚きます。目安箱と言えば、江戸時代の三大改革のひとつ、享保の改革で第八代将軍徳川吉宗が評定所門前に設置したものが知られていますが、実は明治政府も目安箱を設置していたのです。
東京府庁表門に設置された目安箱
(尾佐竹猛「維新前後に於ける立憲思想」所収)
日本橋の目安箱は、明治元年(1868)から同4年(1871)8月まで設置されていたことがわかっています。箱やその中に入れられた訴状の管理は政府の太政官が行っていました。箱が置かれた地元である通一丁目は箱の「見守り」を命じられていましたが、ただ箱に異常がないかを見守っているだけで、箱の中を見ることはできませんでした。
この時期東京には、日本橋のほかにも東京府庁の表門、浅草見附、板橋宿、公議所、民部省、弾正台に目安箱が置かれていました。これらは近代的な政治・司法制度の整備とともに明治6年(1873)には全て廃止されていきます。
* 詳細は都史紀要40「続レファレンスの杜」第十二章 明治の目安箱 を参照
それにしてもこの張り紙にある「天下の大事件」とは何だったのでしょうか?見方によっては前年に徳川幕府が倒れたのも天下の大事件のような気がします。想像するときりがありませんが、当時の時代背景をうかがえる興味深い事例です。
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