史料解説―公園はワンダーランド その三

 

 明治十年(一八七七)五月二十一日の照会文です。

 出願者榊原鍵吉は、幕末から明治にかけて活躍した剣術(直心影流)の達人。幕末に車坂に道場を開いています。明治六年(一八七三)武芸者の困窮を助けるために「撃剣会」を催し、剣の立ち合いを見世物興行として成功させます。

 江戸・東京の様々な出来事を年代順に書き記した「武江年表」*1 には、明治六年四月末から「撃剣会とて、剣術の師場を構へ、試合をなして見物を招く」とあり、浅草左衛門町河岸で榊原が始め、見物人が群れをなしていたと記されています。これをみて、他の道場も同様の試みを始め、表神保町南側で岡田武重(神道無念流)、浅草寿町で千葉周作と海保順吉(北辰一刀流)、本所御船蔵前でも千葉東一郎と之胤(同流)などが撃剣会を行っています。他にも柔術や馬術、長刀や鎗などの試合が見世物として行われました。

 ところが剣術家にとって一大事が起こります。明治九年(一八七六)三月二十八日、太政官から「大礼服着用並軍人等の外帯刀被禁の件」、いわゆる廃刀令が出され、大礼服着用の場合や、軍人・警察官吏などが制服を着用する場合以外に刀を身に付けることを禁じられてしまったのです。

 そこで榊原が考案したのが「倭杖(やまとづえ)」。これは帯に掛けるための鉤が付いた木刀で、剣の代わりにこれを使って興行を続けたのです。「武江年表」にも「倭杖 榊原鍵吉殿の工夫、場を定めて、試合をなし見する」とあり、願書に貼られた貼り紙に「晴天五日」と記されていることから、野天で試合を行っていたのでしょうか。この杖は、興行のためだけではなく、護身用として販売も行っていました。

 剣術家としての技量だけでなく、こうした涙ぐましい努力によって剣の道が廃れずに済んだ功績を称え、全日本剣道連盟は平成十五年(二〇〇三)に彼を剣道殿堂として顕彰しています。

 ところで貼り紙には小さく肩書に「ほノ廿一ばん」と記されています。これは公園地内の場所を示しています。浅草は、江戸時代から浅草寺や三社権現などへの参詣者が集まる繁華な地でした。特に浅草寺本堂西側は「浅草奥山」と呼ばれ、数多くの見世物小屋や水茶屋などが集まる歓楽街でした。明治六年浅草寺周辺が公園地に指定されてからもそうした状況は変わらず、明治七年の段階で三千三坪の敷地に二百五十軒の小屋が立ち並んでいました*2。これらを管理するため、小屋の軒別にいろはの文字と番号を付していたのです。

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