史料解説―トルコ人、明治の東京にあらわる

「トルコ人内地旅行免状下付方出願の件に付国籍証書交付の旨外務省庶務課長心得より照会」

内地旅行免状とは

 今回の史料に登場する「内地旅行免状」とは一体どのようなものでしょうか。

 ペリー来航とそれに続く条約によって日本は開国し、横浜や長崎などでは居留する外国人の数が増えていきました。

 ただし、彼らは自由に日本国内を移動できたわけではありません。

 「外国人遊歩規程」というものが定められており、外国人居留地内およびそこから約四十キロメートルの範囲内でしか活動することが許されませんでした。

 この条件は明治維新後も同様で、もし、外国人が居留地以外の地域へ出かけたいと思った時には、外務省に申請し「内地旅行免状」を発給してもらうことが必要でした。

 また、内地旅行免状は病気療養など特別な理由のある時しか発行されませんでした。

 日本にやってくる外国人たちは、自由に日本国内を移動し商品の売買を行ったり、居住したりしたいとの希望を持ち、日本政府に遊歩規程の撤廃を求めました。

 しかし、領事裁判権を残したまま、外国人の自由な移動を認めることに反対論も相次ぎ、世論も巻き込んでの大きな問題となりました。

 これを内地雑居問題(または内地開放問題)といいます。

 今回の史料は明治二十六年(一八九三)に作成されたもので、外国人の国内移動には内地旅行免状が必要だった時期にあたっています。

 ちなみに、この翌年に領事裁判権と治外法権(いわゆる不平等条約)の撤廃を認める日英通商航海條約が締結されると、それと引き換えにして内地雑居が認められることになります(発効は明治三十二年:一八九九年)。

日本とトルコ

 近代における日本とトルコとの関係は、意外に古く、明治二十年(一八八七)に始まります。

 この年、小松宮彰仁親王が欧州歴訪と同時にオスマン帝国を訪問、明治天皇からの勲章をスルタンのアブデュル・ハミト2世に奉呈しました。

 その答礼として明治二十三年、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が日本に派遣されますが、その帰途に和歌山沖で台風にあおられ座礁・沈没してしまいました。

 この時、現地の住民たちは乗組員の救出と介抱にあたり、生存者は日本の軍艦でトルコまで送り届けられました。

 このように、使節の派遣や、事故の救難活動を通じ両国の結びつきは強くなりましたが、条約の締結をめぐって両国の間には対立もあり、正式な国交は結ばれませんでした。

ナシフ・ヱリヤス・アントワーヌとは何者なのか

 日本とトルコの間に、正式な国交が結ばれなかったのはすでに書いた通りで、国交樹立は大正末のことでした。

 そのため、明治期に作成された今回の史料の中には「無條約国人」という言葉が出てきます。

 この時は、「ナシフ・ヱリヤス・アントワーヌ」がオスマン帝国発行の旅券を所持していたため、外務省で身分を保証する書類を東京府へ回送し、同時に免状も無事に発行されています。

 文中に商人である旨が書かれていますが、一体この「ナシフ・ヱリヤス・アントワーヌ」なるトルコ人、何者なのかは不明です。

 何を日本で販売しようとしていたのか、どうして言葉も通じない日本へやって来たのか、いつまで滞在したのか、などなど謎は尽きません。

 そもそも、「アントワーヌ」はトルコの伝統的な名前ではなく、彼が本当にトルコ出身の商人だったのかも怪しいところですが、今となっては真相は闇の中です。

 史料からは、言葉の通じない外国人商人を前に、四苦八苦して何とか身分を確認し、書類発行を行おうとする当時の東京府の役人の姿を垣間見ることができます。

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史料の解読/読み下し例

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