資料解説~ 流人(るにん)帳を読む
冒頭に記される人物、三木勘解由(かげゆ)は、「諸向地面取調書」(国立公文書館所蔵)によれば「御船手(ふなて)」という職務に就いていました。船手は、幕府が所有する船舶の管理や運用を統括する役職で、寛永9年(1632)まで設置されていた船奉行から編成され、文久2年(1862)に廃止されるまで存在しました。この三木が管理する船の一つで、三宅島へ流人を搬送する船を任されていた、船頭と推測される源吾なる人物の船に乗り、搬送された流人が数名書き上げられています。
一つ書きの直ぐ下に書かれているのは、流人の宗旨(宗門・宗派)です。今回の場合、吉五郎は禅宗、その他の三名は真言宗でした。罪状は博奕(賭博)で、その下には朱筆で「病死」や「嶋抜(しまぬけ)」と記されています。病死はそのままの意味で、搬送される厳しい状況の中、病に罹り亡くなる場合も少なくありませんでした。そのため先述のとおり、前もって薬を渡されていたと推測されます。一方、島抜は遠島の刑に処せられた者が島から抜け出すことで、島破りなどとも言い、捕らえられた場合は死罪となりました。
流人の一人目は相模国大住郡千村(現神奈川県秦野市)の無宿吉五郎、二人目は武蔵国多摩郡下小金井村(現東京都小金井市)の無宿小次郎、三人目は上野国山田郡大間々町(現群馬県みどり市)の無宿宇吉、四人目は田畑村(現住所不明)の無宿竹次郎と読むことができます。四人の身分はいずれも無宿、つまり町人や百姓で人別帳から除外されたいわゆる戸籍が無い者たちでした。また、爪印の下に記載される「坪」や「伊豆」、「阿」は三宅島内で割り当てられた村名を指しており、それぞれ坪田村・伊豆村・阿古村を意味しています。また、流人の名前の下に見られる「夘(卯)」は当年の干支であり、おそらく搬送される前年の安政2年(1855)時の年齢がそれぞれ記されています。
さて、四人の中で下小金井村の小次郎についてはご存知の方も多いのではないでしょうか。そうです、多摩地域の侠客として知られる「小金井小次郎」のことです。小次郎は、文政元年(1818)に下小金井村の名主関勘右衛門の三男として生まれ、博徒として名を上げ、武蔵・相模にわたる大親分となった人物です。
小次郎は、安政3年4月12日に、博打の罪で三宅島へ流罪となりました。当時、小次郎が住むことになった伊豆村は、比較的湧水地が少なく、姉ヶ浜と呼ばれる場所に桶を頭上に乗せて水汲みをするような厳しい環境でした。そのような島民の姿を見るに忍びず、私費を投じて井戸を設けました。その井戸とそれを讃えた石碑が現在も残されています(三宅島観光協会ホームページ https://www.miyakejima.gr.jp/see/well-koganeikojiro/)。
罪状の下に記されているように、小次郎は慶応4年(1868)5月6日に赦免されました。およそ12年間三宅島で生活を送り、離れて暮らしていた妻や娘、母・妹を引き取ることを求めて、認可されています。
その後、小次郎一家はどうなったかと言いますと、明治7年(1874)6月に再び三宅島へ戻っているようです。小次郎が、伊豆村にある普済院の住職池田俊道から薪炭を製造するために資金を借用した史料が見受けられます。
その後、同年7月3日に噴火災が発生し、神着村東郷地区を中心に大きな被害をもたらしました。それに対し、当館所蔵の「静岡県引継伊豆七島書類」(656―12―01―28)をみると、「炭焼立方」として雇われていた関小次郎が麦五俵を寄附し、足柄県から褒賞が与えられていることが確認できます。このことから、流人小金井小次郎は改めて関小次郎として、三宅島の島民の暮らしに多大な貢献をしていたことがうかがえます。
主要参考文献
- 池田信道『三宅島流刑史』(1978年、小金井新聞社)
- 工藤航平「八丈島流人アーカイブズの概要調査報告 ―都有形文化財「八丈民政資料」の伝来と構造―」(『東京都公文書館調査研究年報』第5号(2019年、東京都公文書館)
- 『伊豆諸島東京移管百年史 下巻 各島編』(1981年、東京都島嶼町村会)
- 『三宅島史』(1982年、三宅村)
- 『小金井市史』資料編 近世(2017年、小金井市)、『同』通史編(2019年、同)
資料情報
- 『流罪人名帳 三宅島 三』自弘化四年至元治元年 請求番号:江戸明治期史料 656―9―1―3
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