- 更新日
東京都公文書館では、東京都有形文化財(古文書)に指定されている八丈島民政資料をはじめ、代表的な地誌である「八丈実記」や伊豆諸島が静岡県から東京府へ移管された際の引継文書等を所蔵しています。令和5年(2023)3月には、新たな史料集『東京都公文書館資料叢書』の第1巻として、明治初年に島々を巡回調査した日誌や記録、戸数や人口・産物・風俗などを取り調べて提出させた明細(大概)帳などの史料を収載した「明治初年の伊豆諸島」を刊行しました。
この刊行を記念して、企画展「伊豆諸島 ~歴史・文化、そして今」を開催しました(令和6年7月19日~9月17日)。ここでは、本展示史料の中から江戸時代の「流人帳」について取り上げたいと思います。
説明を記載してください。
H2タイトルが入ります
「流人(るにん)帳」の史料的性格について
当館が所蔵する流人に関する史料には、「流人明細帳」や「流人証文」、「流人在命帳」など様々な文書類が見られます。これらは、流人が江戸を発ってから島に到着し、島内で生活を送り、そして赦免もしくは死亡するまでの間、流人を管理するために作成・授受された文書が網羅されています。史料を読む前に、まず流人に関するアーカイブズの構造について簡単に触れておきましょう。
罪を犯した者「流人」は、奉行所から遠島(罪人を島に送り、社会から隔離する刑罰。伊豆七島や五島列島、隠岐・壱岐などに配流されましたが、のちに八丈・三宅・新島・隠岐のみとなりました。)の裁きを受けた後、島割帳という文書にもとづいて、出帆前日に流刑先が申し渡されました。その後、幕府からの金銭や身寄りからの届け物が与えられ、適宜医師から薬が処方されます。
流人船は幕府が民間船を手配していましたが、寛政8年(1796)に伊豆七島嶋方会所が開設されると、流人の搬送も担うようになりました。その流人の搬送に際し、流人の名前や元の居住地・身分・年齢が書き上げられ、八丈島の地役人に提出されます。これが、(1)「流人証文」という文書です。
流人はまず三宅島に搬送され、「三宅島流人」と「八丈島流人」に分けられます。このとき、流人の名前・旧居住地・身分・年齢のほか、宗門や罪状、遠島の申し渡された日などを一人別で書き上げたものが(2)「流罪人名帳」です。武家や僧侶は花押、庶民らは爪印を押して、記載内容に間違いがないことを証明しました。吟味中で入牢している者や流人は印を所持していないため、この方法が採られていました。
八丈島に到着すると、流人を各村に割り当てるために(3)「流人村割帳」が作成されます。流人に対し、名主宅や村役場で島の法度や流人の掟などが申し渡された後、罪状などを聞いて「科書(とががき)」が作成され、地役人に提出されます。また、これをもとに島役所で管理する台帳として作成された文書が、(4)「流人科書」です。
流刑は原則、無期限であったため赦免もしくは逃亡する以外は島内で生涯を終えることになります。各村では、島民と区別して流人を管理しておく必要があり、その増減や移動を把握するために(5)「流人在命帳」が作成されました。
この他、流人の赦免や出島、死亡に関する情報を管理した「流人御赦免并死亡覚」や、流人へ送られた金銭や物品を記録した「流罪之者被下銭并雑物届帳」も作成され、文書による徹底した管理体制が構築されていたことがうかがえます。
これらの「流人帳」のうち、今回解読するのは、かつて大島支庁の三宅島出張所に保存されていた(2)「流罪人名帳」です。それでは、史料を読んでいきましょう。
目次
印刷してご利用いただくために、PDF形式のファイルをご用意しました。
【資料】
『流罪人名帳 三宅島 三』自弘化四年至元治元年
請求番号:江戸明治期史料 656―9―1―3