史料解説~三田聖坂に馬車道をつくる

一般的に、日本で「馬車」が最初に走ったのは横浜だと言われていますが、江戸においても、慶応2年(1866)10月、幕府によって荷物を運搬するために馬車の通行が許可されました。江戸府内の馬車通行許可にあたっては、牛車用の道路を馬車の通行路とするようお達しが出されました。この時、五街道についても同様に馬車の通行が許可されています*

本史料の舞台である三田聖坂は、現在の港区三田四丁目にある坂で、江戸時代には『江戸名所図会』にも描かれた名所の一つでした。聖坂という名称は、かつてこの地に多く住んでいた高野聖が開いた坂であることに由来していると言われています。

三田聖坂は、東海道・江戸内海(東京湾)の沿岸とほぼ並行し南北に通っており、日本橋を背にして南上がりになっています。聖坂の西側にあたる内陸は功運寺をはじめとするいくつかの寺が集まる寺社地と町人地が、東側は丹波亀山藩下屋敷(松平紀伊守)・上野沼田藩下屋敷(土岐美濃守)などの大名屋敷と済海寺などの寺社地と町人地とが混在していました。坂を上がりきったところには、肥後熊本藩下屋敷(細川越中守)(現:高輪皇族邸・仙洞仮御所周辺)がありました。江戸時代、三田聖坂の東側は、東海道、現在の国道16号線・第一京浜が通っている辺りまでしか陸はなく、JR山手線が走っている所は海の中でした。

図1「聖坂 済海寺 功運寺」『(江戸名所図会 三)』
図1「聖坂 済海寺 功運寺」『(江戸名所図会 三)』(請求番号:江戸明治期史料004722)
東京都公文書館デジタルアーカイブ:『(江戸名所図会 三)』
38コマ目「聖坂 済海寺 功運寺」


明治元年(1868)12月、三田台町から三田聖坂通り三田台町三丁目中程までを「馬車」が通れる道として整備することになりました。その理由は、同年11月、イギリス公使・パークスらが、三田聖坂の東側にあった上野沼田藩下屋敷(土岐美濃守)をイギリス公使館とするため移ってきたからです。これより遡って、徳川幕府は、各国の仮公使館として江戸府内の寺を公使館として与え、三田聖坂の済海寺はすでにフランス公使館として利用されていました。つまり、三田聖坂には、フランス・イギリス、2カ国の公使館が建ち並ぶことになったのです。

図2 三田聖坂部分「芝高輪辺絵図 全」(内題:芝三田二本榎高輪辺絵図)(請求番号:654-02-03-02(ZG-053))
図2 三田聖坂部分「芝高輪辺絵図 全」(内題:芝三田二本榎高輪辺絵図)(請求番号:654-02-03-02(ZG-053))


公使館に勤める外国人にとって馬車は欠かせない交通手段の一つでしたが、三田聖坂の路面は凸凹していて馬車を走らせるには差し支えたようです。そこで明治政府は、道路を管理する東京府へ「三田聖坂を馬車が通れる道として整備するよう」達し、東京府は三田功運寺門前と三田台町の人々へ「町家前の道は自分達で」と指示します。

江戸時代、道路は幕府の公儀地であったものの、その整備は道路ごとに「持場」が区分され、武家や町、寺社によって分担されました。特に、その道路沿いに複数の大名屋敷がある場合、周辺の大名が組合を結成することもありました。

今回の史料を読み進めていくと、三田聖坂の場合、江戸時代の道路整備は、三田聖坂を登りきったところに屋敷を構えていた細川越中守が一手に引き受けるか、近隣の大名家が組合を作って行っていたことがわかります。しかし、道を整備していた細川家をはじめとする大名が明治維新にともなって国許へ帰ってしまい、その負担が町にのしかかってきたのです。三田功運寺門前と三田台町の人々にとって、通常の整備ならなんとかなるものの、今回は馬車道を造るという大工事。困惑した町の人々が、東京府に工事費用の下付を嘆願したのが、今回の解読史料でした。

今回の史料

「九拾三 三田聖坂通道造之儀ニ付調」のうち「乍恐以書付奉願上候」『明治元年・順立帳・5』(請求番号:632.E1.06)

用語説明

  • 路次(ろじ・ろし):道の途中。道すがら。
  • 出役(しゅつやく):元々の役目の他に、臨時の役目を果たすこと。
  • 地先(じさき):その土地。
  • 不陸(ふりく・ふろく):平らではなく凹凸があること、水平でないこと。
  • 荒増(あらまし):だいだい。およそ。
  • 場末(ばすえ):町(江戸)の中心から離れた所。
  • 難渋至極(なんじゅうしごく):この上なく困難である。

参考文献

  • 東京都公文書館編(川崎房五郎)『都史紀要4 築地居留地』昭和32(1975)年
  • 小林信也『江戸の民衆世界と近代化』山川出版社 、平成14(2002)年
  • 松本剣志郎「江戸の公共負担組合と大名家―大下水組合と道造組合―」『社会経済誌学83-1』平成29(2017) 年


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