史料解説~鉄道開業と人々のくらし

町触(鉄道運転開始につき心得)  明治5(1872)年5月

鉄道開業

日本における鉄道は、明治5年9月12日、新橋横浜間を結んで開業したのが始まりです。正式な開業に先立ち、同年5月、まず品川横浜間が開通し、7日に仮開業となりました。所要時間は35分でした。現在京浜東北線に乗ると、品川から桜木町(元の横浜駅)まで約32分ですから、かなりのスピードです。

ちなみに、江戸時代の旅人は一日十里(約40km)歩くのが普通でした。東海道なら早朝に日本橋を発って保土ヶ谷宿か戸塚宿で泊まるのが一般的であったということですから、徒歩で一日弱かかるところをわずか30分ほどで走る鉄道は、まさに夢のような速さでした。(注1)

当時横浜に洋学修業に出てきた青年は、初めて鉄道に乗ったときの印象を「早キ事神の如し」と郷里の父母に書き送っています(注2)

鉄道事故防止のための町触

蒸気機関車は、当時の人々が想像もしない猛スピードで線路上を疾駆します。当然重大な事故が起こることが予想されました。

そこで、仮開業を目前にした明治5年5月4日に出されたのがこの町触です。

史料解釈

壬申(明治5年)五月四日
    町触
今般東京と横浜の間に鉄道が落成し、
まもなく運転が開始されるについては、万一
汽車の発進中に線路を横切ったり、
或いは線路上をさまよったり、荷物を落として置くようなことが
あると、そのものの損傷だけでなく、汽車の障害は数え切れないし、
乗車している人々の人命に関わるので、
以後は線路上の踏切(横切道)に汽車が近づくのを
見たらしばらく待ち合わせ、汽車の通過した
あとに往来すること。かつ連日数度汽車が通過
往来するので、老人や子ども、そのほかとも
この町触の趣旨をよく心得て、線路は勿論
踏切の辻々に掲示してある制札の趣旨を
よく守り、自他の危害を生じさせないように
すべきこと。
  壬申五月四日

ここでは以下のような行為が危険なものとして禁止されています。
汽車の発進中に

  1. 線路を横切る(遮行)こと
  2. 線路上をさまようこと
  3. 線路上に荷物を落としたり置いたりすること

そうして新たな決まり事として、以後は線路上の踏切(横切道)に汽車が近づくのを見たら、しばらく待ち合わせ、汽車が通過後に往来することや、線路脇や踏切の辻に立ててある制札の趣旨を守ることを求めています。

鉄道が、それを利用することのできる一部の人々だけでなく、その周りに暮らす多くの人々に影響を及ぼした一例と言えるでしょう。

  • 注1 「江戸の旅風俗」今井金吾 1997年 大空社 など
    弥次喜多道中で有名な「東海道中膝栗毛」では、弥次郎兵衛と喜多八が江戸を発って最初に宿をとるのは、日本橋から十里半の戸塚宿。品川横浜間は約七里=約30kmで一日弱の行程となる。
  • 注2 「原田二郎伝 下巻 為人と日常」財団法人原田積善会 1938年
    原田二郎は紀州藩士の息として嘉永2年(1849)伊勢の松阪城下に生まれ、鉄道開業当時は24歳(数え年)、洋学修業のため横浜に住んでいた。原田はその後鴻池銀行の経営に携わり、退隠した後は全財産を投じて財団法人原田積善会を設立、社会事業に尽くした。
    また、近江の水口藩重役の息として安政5年(1858)に生まれた山縣悌三郎も、駅逓司に出仕した叔父のもとへ明治5年10月東京遊学のため寄宿、その際横浜から新橋停車場まで鉄道を利用している。自伝の中でその時の印象を「其の走ることの快速なるが故に、電信柱の飛んで来るやうに見え、線路に沿へる砂利や草原の、縞に見えるのに狂喜雀躍した」と表現している。(「児孫の為めに余の生涯を語る」山縣悌三郎 1987年 弘隆社)

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