史料解説~江戸の人相書

日本左衛門指名手配  延享3(1746)年10月

江戸時代の指名手配

今回の解読用文書は、犯罪者の全国指名手配書です。江戸時代には「人相書」と称されていました。最近の指名手配書は本人の写真が添付されるのはもちろん、変装パターンや「ふけ顔」の予測まで画像化して示されています。しかし写真すらなかった江戸時代には、氏名・年齢・生国に続いて背格好や容貌、着物・所有品、しゃべり方の特徴などを言葉で列挙していく形式でした。

浜島庄兵衛の容貌

はたしてそんな人相書の記述から具体的なイメージが浮かび上がってくるものでしょうか。例文の浜島庄兵衛について考えてみましょう。

まず「せい」すなわち身長は五尺八・九寸といいますから175cmを超える大男です。顔はというと色白で面長、鼻筋は通り、「目中細く」といいますから切れ長であったということでしょう。濃い月代に5cm程の引き傷を見せていたといいますからなかなか凄みのあるいい男です。さらに琥珀織りという絹織物を、ビンロウジュの果実を利用した染色法で赤みを帯びた暗黒色にした小袖を着て、丸の内に橘の紋所も見せていたというのですから、人目を忍ぶ盗賊のスタイルではありません。持ち物の鼻紙袋は萌黄色の羅紗(ポルトガル由来の厚地の毛織物)、印籠には鳥の蒔絵が施されていました。相当に目立つ伊達男のイメージです。

白浪五人男・日本駄右衛門のモデル

さすがにこれだけ特徴的な人物であれば江戸時代の人相書でも相当の有効性をもったでしょう。大勢の手下を率いて東海道筋を荒らしまわった強盗の首領、浜島庄兵衛は指名手配された翌年の延享4年(1747)正月、京都町奉行所に自首し、江戸へ護送された後、3月11日、江戸市中引き廻しの上打ち首となりました。

ところでこの人相書によれば浜島庄兵衛は仲間内で「日本左衛門」との異名をとっていたといいます。大きな名前です。すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、彼、浜島庄兵衛こそ、幕末の河竹黙阿弥作「白浪五人男」(正式名「青砥稿花紅彩画」)に登場する賊徒の首領、日本駄右衛門のモデルとなった大盗賊なのでした。

もとより「盗みはすれど非道はせず」という義賊イメージは虚像にほかなりません。幕末に編集された町触集「撰要永久録」の中で、私たちは大盗賊の在りし日の実像と出会うことになりました。これもまた古文書学習の楽しさといえるでしょう。

【参考文献】
  • 竹内誠『元禄人間模様-変動の時代を生きる』(2000年、角川書店)
  • 東京都公文書館編・刊『都史紀要40 続レファレンスの杜』(2008年)
* 出典史料である『撰要永久録』については古文書解読チャレンジ講座第1回「生類憐み政策と都市江戸」をご参照ください。

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