(史料出典:『明治二年十二月 言上帳』)
同日(明治2年12月晦日) 一 元数寄屋町弐町目町年寄平三郎申上候 私町内庄三郎地借舂米渡世与助居宅より 去ル廿七日夜九半時頃出火およひ凡長七町半余 巾平均五町半程焼失翌廿八日朝五時過鎮火 仕候依之火之起り取調候処右与助方ニ而同夕 七時頃より家内打寄餅搗致同五時過相仕舞 釜下ニ残り居候焚落シ炭ヲ消壺江入相湿シ 勝手竈脇板羽目際江差置一同打臥候処 右消壺江入打消シ候焚落シ炭起り返り羽 目板江火移り及出火候義ニも可有之哉外ニ心当 無之旨与助申立候則同人召連為御訴申上候旨 右之平三郎組合彦八右与助召連申来候
同日(明治2年12月晦日) 一 元数寄屋町弐町目町年寄平三郎申し上げ候 私町内庄三郎地借舂米渡世与助居宅より 去る廿七日夜九つ半時頃出火および、凡そ長七町半余 巾平均五町半程焼失、翌廿八日朝五時過ぎ鎮火 仕り候、これに依り火の起り取り調べ候処、右与助方にて同夕 七時頃より家内打寄り餅搗致し、同五時過ぎ相仕舞い 釜下に残り居り候焚落し炭を消し壺ヘ入れ相湿し 勝手竈脇板羽目際へ差し置き一同打ち臥し候処 右消し壺へ入れ打消し候焚落し炭起り返り、羽 目板へ火移り、出火および候義にもこれあるべきや、外に心当たり これなき旨与助申し立て候、則同人召し連れ御訴のため申し上げ候旨 右の平三郎、組合彦八、右与助召し連れ申し来たり候
元数寄屋町(現:中央区銀座5丁目の一部)二丁目町年寄平三郎さんの訴えです。年も押し詰まった12月27日の深夜(28日午前1時頃)、平三郎さんの土地を借りて舂米屋(玄米を精白して販売する商売)を営んでいる与助さんの家から出火しました。この火は延々と付近の町を焼き尽くし、翌28日の朝8時すぎに鎮火します。火事の原因を調べたところ、与助さんの証言によれば、その日は夕方4時ごろから家内で餅つきをし、午後8時には終わって火の始末をしました。ところが、家族が寝ている間に火消壺に入れた炭が起こり返り、板壁に燃え移ってしまったようです。与助さんは火消壺の中でさらに炭を湿らせてずいぶん念入りに火の始末をしたようですが、火種はこれしか心当たりがないとのことで、この日組合*1の彦八さんと一緒に与助さんを連れて役所に届け出ました。
家族そろっての楽しいお正月準備も、一夜のうちに消し去った悲しい年末の火事です。
「火事と喧嘩は江戸の華」ともいわれるほど名物化していた江戸の火事ですが、江戸の町は密集した木造家屋であったため、一度で何十もの町が焼失する火事が絶え間なく起きていました。明治初頭の東京もまだ同じ状況です。この火事でも随分広い範囲が焼け落ちました。
「長七町半余巾平均五町半程*2」とありますが、東京府に提出された公文書*3によると、与助さんの家から出た火は冬の西北風にのって尾張町通り銀座三丁目(現:銀座3丁目)から芝口三丁目(現:港区新橋3丁目)まで、御堀端通り土橋(現:新橋1丁目)まで一円、木挽町通五丁目(現:銀座6丁目)まで燃え広がり、最寄りの武家屋敷一円も被害に遭いました。
江戸の町は火事による破壊と建設の繰り返しにより発展してきたともいわれます。幕府による防火対策は絶えず行われていましたし、町人の防火意識も高かったのですが、それ以上に火事後の復興景気を喜ぶ輩も多かったという現状がありました。江戸の町では炊事が終わってからの夜中の火事は放火の疑いも多かったとのことです。特に幕末から明治初めにかけては、世情不安をあおる不審火が頻発しました。与助さんが必死に詳しく火の始末方法を申し立てているのもうなずけます。*4
年が明けて明治3年(1870)正月、東京府は防火対策のため、新規に家を建てる場合には、火に強い土蔵造塗屋とすること、道への張出しや建て足しを禁じることなどを命じる触れを出しました*5。しかし、これは享保改革の防火対策以来繰り返し発令されてきた内容であり、しかも「経済的に余力があれば」という、あくまで建てる側の自主性に任せた不十分な規制でした。
全く新しい発想に立つ防火策は二年後に始動することになります。明治5年(1872)2月、再び築地から銀座一帯にかけて、28万4千坪、五千戸を焼き尽くす大火が発生すると、これを契機に政府・東京府は、諸外国に肩を並べられる様な西洋風の街並みと、不燃性の建築物による防火都市をめざし、銀座煉瓦街建設計画を進めていくことになったのです。*6
ちなみに届出の日付は「十二月晦日」となっています。旧暦では大・小月があり、ひと月が30日と29日の月がありました。明治2年12月は大の月ですから、十二月晦日は12月30日にあたります。