史料の解読/読み下し/解釈―障子を開けるか? 閉めるか? ~江戸城の秋

 

出典:「八月十五日ヨリ十二月晦日マテ」(請求番号:新見―196)

【史料】

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解読文

    文化五辰年八月十五日伺左之通
     享和三亥年八月十五日
     一 御白書院御向御障子
     一 御同所御後御障子
     一 山吹間細廊下御障子
     右者雨天冷気ニ付伺之上御障子不残
     建置申候今日も雨天冷気ニ建置
     可申哉奉伺候以上

     八月十五日
    右御伺書御側衆江御上ヶ之処矢張是迄之
    御拵ニ而宜旨御差図

    文化十三子年閏八月十五日
    今日雨天冷気ニ付御白書院御上段御挟
    障子御明ヶ不被成候旨御側衆水野
    石見守殿被仰聞其外ハ例年之通不
    残明ヶ置相済候事

    八月晦日
    一 明朔日ゟ例年之通冬御拵仕候段御側衆江
    御書取ヲ以来月之御月番御頭衆被御申上
    両御月番江も御口上ニ而被御申上大目付衆
    御目付衆江も被仰達
    一 明朔日ゟ御障子御書取出ル
    一 明後二日重陽之御祝儀上リ候得者大広間
    二三之間実検間薄縁敷御断リ出ル

     御白書院御向并西御縁
    入御之節、山吹間細廊下御障子
    明置申候

    九月朔日

    一 明二日、重陽之御祝儀時服献上有之御掛リ
    例刻御登城之旨御頭衆被仰聞候付注進
    之儀肝煎江申渡



    

読み下し例

読み下し例

語句説明

  • 御白書院(おんしろしょいん)
    徳川幕府の政庁であり将軍一家の住居であった江戸城本丸御殿の表向(おもてむき)(政庁部分)にある建物(図1)。表向の中で最も格式のある大広間に次ぐ格式を持つ。上段・下段・帝鑑之間・連歌之間の四部屋とこれらを囲う入側(いりがわ)(部屋と縁側の間にある通路のこと)からなる。部屋と部屋、入側と建物の外との境には、襖や障子がたてられた。(図2) 白書院は、将軍宣下などの際には饗応の場として、将軍に諸大名が対面する月次御礼(つきなみおんれい)(毎月朔日・十五日・二十八日の定例日に大名・諸士が江戸城に登城し将軍に謁見すること。)や参勤交代の挨拶の際などには、将軍と御三家や加賀藩前田家、越前藩松平家などとの対面に用いられた
    図1本丸御殿平面図
    図1 本丸御殿平面図
    (「乾 江戸城御本丸御表御中奥御殿向御櫓御多門共総絵図」
    「(坤)大奥向総絵図」を貼り合わせた。いずれも『東京市史稿 皇城篇附図2』所収)
    図2白書院平面図
    図2 白書院平面図
    (「乾 江戸城御本丸御表御中奥御殿向御櫓御多門共総絵図」『東京市史稿 皇城篇附図2』部分)
  • 山吹間細廊下(やまぶきのまほそろうか)
    白書院と、その北側にある山吹之間を繋ぐ細い廊下。廊下の西側は中庭があり、廊下と中庭との境には襖と障子がたてられた。
  • 御挟障子(はさみしょうじ)
    引き違いの襖と襖の間にたてられる明かり障子のこと。
  • 重陽之御祝(ちょうようのおいわい)
    五節句[正月七日の「人日(じんじつ)」、三月三日の「上巳(じょうし)」、五月五日「端午(たんご)」、七月七日「七夕(しちせき)」、九月九日の「重陽(ちょうよう)」]の一つで、一般的には九月九日に行われるお祝い。旧暦では菊の咲く時期であることから「菊の節句」とも言われる。
  • 大広間二三之間実検之間(じっけんのま)
    大広間は江戸城本丸御殿の表向にあり、本丸御殿の中で最も格式のある建物。上段(納戸構も含む)・中段・下段・二之間・三之間・四之間・後之間とこれらを囲う入側などからなる。実検之間は、三之間南側に飛び出した廊下の別称で、図面上には「中門(ちゅうもん)」と書かれることもある。(図3) 大広間は将軍宣下・武家諸法度発布・年始の拝賀・月次御礼など幕府にとって最も重要な儀式の際に用いられた。
    図3大広間平面図
    図3 大広間平面図
    (「乾 江戸城御本丸御表御中奥御殿向御櫓御多門共総絵図」『東京市史稿 皇城篇附図2』部分)
  • 薄縁敷(うすべりしき)
    畳の表面に使われている筵(むしろ)で作られた薄い敷物。

史料解説

記事ID:003-001-20240718-007668