史料の解読/読み下し/解釈―明治の「言上帳」を読もう その5
(史料出典:『明治二年十二月 言上帳』)
【史料5】
解読文
同日(明治2年12月7日)
一 小日向水道町々年寄松五郎申上候町内
見廻り候処古川橋際ニ車壱輛捨有之候ヲ
一昨五日朝見出申候則持参為御訴申上候旨
右之松五郎組合平蔵申来候
右品三日晒置否可訴出旨申付之
右車ハ武州豊島郡上練馬村百姓孫四郎
所持品之由同十日双方訴出候ニ付孫四郎所持ニ
相違無之候ハヽ受取渡可致旨申渡
読み下し文
同日(明治2年12月7日)
一 小日向水道町町年寄松五郎申し上げ候。町内
見廻り候処、古川橋際に車壱輛捨これあり候を
一昨五日朝見出し申し候。すなわち持参御訴のため申し上げ候旨
右の松五郎、組合平蔵申し来たり候。
右品三日晒し置き、否訴え出ずべき旨これを申し付く。
右車は武州豊島郡上練馬村百姓孫四郎
所持品の由、同十日双方訴え出で候に付き、孫四郎所持に
相違これなく候わば、受け取り渡し致すべき旨申し渡す。
解釈
放置荷車、持主見つかる。(明治2年12月7日の訴え)
明治2年(1869)12月5日朝、小日向水道町(現在の文京区小日向二丁目、水道二丁目の一部)の町年寄松五郎さんは、町内見廻り中に古川橋*のそばで荷車を見つけました。同月7日、松五郎さんは、組合の平蔵さんと一緒に役所に行き、このことを届け出ると、人目につく場所に三日間置いたのち、持主が現れなければ再度届けるようにと命じられました。
すると、偶然にも、武蔵国豊島郡上練馬村(現在の練馬区春日町・向山・貫井・田柄・高松・光が丘・早宮・谷原地域)に住む孫四郎さんから荷車の紛失届が出されたのです。両者の言い分が一致することから、同月10日、荷車は無事、孫四郎さんに返されることになりました。
この一件で、興味深いのは、持主を探し出すために、荷車を三日間、人が集まる場所に置いておいたことです。これは、江戸時代以来の「拾い物」(遺失物)の取り扱い方法です。享保6年(1721)、「拾い物」は三日間市中にさらして落し主を見つけ出す旨の法令が出されました。落した物がお金だった場合は半分をお礼として拾い主に渡し、反物などお金以外の場合でも相応のお礼をすることが命じられています。もし、「拾い物」を役所に届けず、着服した場合には過料を科すとあります(『徳川禁令考』後集第三)。
さらに、この一件で注目されるのは、荷車の持主が上練馬村の者だったことです。上練馬村といえば「練馬大根」で有名ですが、このほかにも江戸向け商品として牛蒡や蕪などを栽培していました。文政3年(1820)の記録によれば、大根の生産高は、生大根2500駄(一駄100本)、干大根2750駄(一駄200本)で、これに牛蒡・茄子・蕪を加えた根菜類の総売り上げは金576両余にものぼりました。「練馬大根」は村の経済と江戸庶民の食生活を支えていたのです。村人たちは、根菜類の生産に必要な肥料(下肥)を確保するために武家屋敷や商家等と契約し、下掃除代金を生大根や沢庵大根で相殺していたようです(『練馬区史』歴史編)。また、荷車が停められていた小日向水道町あたりは、練馬方面から神田の青物市場に向かう道筋にあたります。
こうしたことから考えると、孫四郎は荷車に大根等を積んで江戸にやってきて、所用のため、少しの間だけ橋際に停めておくつもりだったのでしょう。ところが、運悪く「拾い物」として届けを出されてしまい、このような事態になってしまったのではないかと思われます。詳細は書かれていませんが、江戸と近郊農村のつながりを想像させる史料と言えましょう。