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東京都公文書館では、令和5年(2023)7月21日(金)から9月14日(木)まで、企画展「旗本のライフスタイル ~家と仕事と私」を開催しました。旗本(はたもと)は、将軍の直属家臣団のうち、知行高(ちぎょうだか)1万石以下で、将軍に御目見(おめみえ)以上の家格を持つ者を指します注1。その役割は、江戸城などの警衛や将軍の護衛を主務とする番方(ばんかた)と、町奉行や勘定奉行など行政・司法・財政を担う役方(やくかた)に分かれていました。
本展示では主に、旗本が務めた役職の一つである「目付(めつけ)」に着目し、当館が所蔵する「新見文書」を展示することで、旗本のすがたをご紹介しました。ここでは、その中でも目付が記した心得書(こころえしょ)について、もう少し掘り下げていきたいと思います。
旗本新見家について
目付は、若年寄の支配下に置かれ、旗本・御家人(ごけにん)の監察や諸役人の勤務状況の検査を主務としていました。その職務内容は、殿中礼法の指揮、将軍参詣・御成(おなり)の行列の監督、評定所(ひょうじょうしょ)の立会い、幕府諸施設の巡察、消防の監視、諸普請の出来栄え見分など多岐にわたります。人数は不同で、享保17年(1732)に定員は10名と定められますが、幕末には増員され30名前後となり、外国掛、海防掛などの職務も兼務するようになります。
このように、目付は、旗本・御家人を統制する「幕府の監察人」として重要な役割を担っていました。
さて、新見家は武田家の庶流で、元々「にゐみ」と称していたようですが、後に徳川家康の命により「しんみ」を称すようになったといわれています注2。徳川家康の関東入封後、相模国鎌倉郡のうちに250石を与えられ、元和3年(1617)8月には近江国蒲生郡(がもうぐん)、滋賀郡などのうちに加増されて、合計810石余を領知していました注3
新見家で目付の役職に最初に就いたのは、天明6年(1786)3月6日に正恒(まさつね)の跡を継いだ正登(まささだ)で、寛政7年(1795)4月7日のことでした。続いて、正登の跡を継いだ正路(まさみち)も、文政5年(1822)西丸目付、同6年に本丸目付に就任し、大坂町奉行を経て、将軍家慶の御側(おそば)、御側御用取次(ごようとりつぎ)に進み、天保改革政治の一翼を担いました。
当館に伝わる新見文書の多くは、新見家がこの目付の職務を担っていた際に作成されたものです。それでは、早速資料を読んでみましょう。
注
- 主に、大石学編『江戸幕府大事典』(吉川弘文館、2019年)などを参照とした。
- 『寛政重修諸家譜』第3―317(続群書類従完成会、1964年)
- 「明細短冊」(国立公文書館蔵)によれば、「本国三河」と記されているが、管見の限り『寛政重修諸家譜』には明記されていない。
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