「大江戸八百八町」といいますが、実際はどのくらいの町数だったのでしょうか?
たしかに、よく「大江戸八百八町」という言葉を聞きますが、これは江戸の実際の町数ではありません。江戸という都市空間に多数の町が存在していたことを示す、一種の慣用表現として使われています。
天正18年(1590)、徳川家康が入ってきた頃の江戸は、まだまだ広大な武蔵野の一寒村にすぎませんでした。入り江が深く入りこみ、低湿地がひろがる江戸。現在からはちょっと想像しがたい光景がひろがっていたようです。
そんな江戸も長期間にわたって大がかりな工事が行われ、将軍様のお膝元として整えられて行きました。丘陵地を切り崩し、入り江を埋め立てることによって宅地が造成され、多くの町が生まれたのです。
以下の表に、年代をおって江戸の町が拡大して行く過程を示しました。それによると、江戸の総町数は延享年間(1744~1748)に1678町となります。実に、八百八町の倍以上です。
年代 | 事項 | 増加分 | 総町数 |
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慶長~寛永年間(1596~1644) | 江戸城を中心として多数の町が新設。これらは古町と呼ばれる。 | 約300町 | 約300町 |
明暦3年(1657)大火以後 |
新たな都市計画。
→江戸の発展の基礎となる。
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寛文2年(1662) | 芝・三田・飯倉~下谷・浅草にいたる街道筋の代官支配地に建設された町屋を、町並地として町奉行支配に組み込む。 | 約300町 | 674町 |
延宝年間(1673~1681) |
ほぼ江戸の原形ができあがる。
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正徳3年(1713) | 本所・深川一帯、山の手の町屋を町並地に。 | 259町 | 933町 |
延享年間(1744~1747) | 町地の強制移転により「代地町」が増加。居住町人の増加により、寺社門前町を町奉行支配に。 | 745町 | 1678町 |
拡大する江戸の町。では、一体どこからどこまでが江戸とされたのでしょう?
江戸といっても、町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、武家地は大目付・目付支配…というように、複雑な支配系統がありました。
これらのうち、町奉行支配に属する町地の外縁をつなぐと、一定の区域が区画されます。この区画内が通常呼ばれる町奉行支配場であり、通常これが江戸の市域と考えられていました。ただ、それは同じ区画内であっても武家地や寺社地には町奉行の支配が及ばないという点で、「町奉行支配場すなわち江戸の範囲」と言い切れるわけではありませんでした。
実際のところ江戸の範囲と言っても解釈はまちまちで、決まった境界があるわけではなかったようです。町奉行支配場・寺社勧化場・江戸払御構場所・札懸場など、異なる行政系統により独自に設定解釈されていました。
このように、江戸の範囲について解釈がまちまちであったところ、幕府は統一的見解を示すよう求められました。
文政元年(1818)8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。その内容を要約すると、以下のとおりです。
「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせに回答するのに、目付の方には書留等がない。前例等を取り調べても、解釈がまちまちで「ここまでが江戸」という御定も見当たらないので回答しかねている。
この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。
その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。
これは、寺社勧化場(2)と札懸場(4)の対象となる江戸の範囲にほぼ一致します。
現在の行政区画でいえば、次のようになります。
千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区・品川区の一部・目黒区の一部・渋谷区・豊島区・北区の一部・板橋区の一部・練馬区の一部・荒川区
この朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、この墨引で示された範囲が、町奉行所支配の範囲を表しています。朱引と墨引を見比べると、例外的に目黒付近で墨引が朱引の外側に突出していることを除けば、ほぼ朱引の範囲内に墨引が含まれる形になっていることが見てとれます。
以来、江戸の範囲といえば、この朱引の範囲と解釈されるようになったのです。