資料解説~東京府庁の始まり

慶応4年(1868)5月15日、上野寛永寺に立てこもり抵抗を続けていた彰義隊を破り江戸を手中におさめた新政府は、それまで江戸市中の行政を町奉行に委任していた体制を改め、同月19日に町奉行所を廃し市政裁判所を設置しました。この時町奉行所の与力・同心達は従来通り職務を続けるよう命じられます。

同年7月17日、江戸を東京とする詔書が発せられると、市政裁判所は廃止され、東京府が設置されます。府庁舎には、幸橋内にあった元大和郡山藩柳沢家の上屋敷があてられました(現千代田区内幸町1ー2)。正式な開庁は8月17日、全ての業務を府庁舎へ移して、執務を開始したのは9月2日でした。それまでは元の市政裁判所、すなわち町奉行所の建物で業務を行っていました。

この簿冊は、発足したばかりの東京府が、業務開始当初からやりとりした受発信文書を書き留めたもので、常務方が保管していたものです。表紙左上に「壱」と朱墨で記されており、東京府発足の最初期に作成された文書であることがわかります。

明治初年の東京府の組織は、町奉行所の組織を元に、改編されていきますが、資料によって呼び方が異なっていたり、職掌が明らかでないなど不明な点が多くあります。常務方(常務局・常務掛)は、明治2年(1869)から5年にかけて存在していた組織で、主として庶務的業務を担当していました。

今回取り上げた資料は、この簿冊に収録された全54件の文書の内、3件目に収録されているものです。

宛先は「北改正懸 御同役中」、差出は「南 御同役」とあります。東京府の前身である市政裁判所は、南北に分かれていた町奉行所*1を引き継いだため、南市政裁判所と北市政裁判所に分かれていました。つまり、この文書は元北市政裁判所で執務を行っていた「改正懸」へ、元南市政裁判所で執務していた「同役=改正懸」から送付された文書であることがわかります。

改正懸とは、町奉行所が市政裁判所と改称されて間もない5月末に定められた役職で、町奉行所時代の「年番方」を改称したものです*2。年番方とは、町奉行所の管理を司った役職*3で、現在の総務や庶務と呼ばれるような役割を持っていました。つまりこの文書は、8月17日の東京府発足を控え、南北に分かれて執務していた東京府の管理担当者間で交わされた文書であることがわかります。

烏丸光徳(からすまるみつえ)は、天保3年(1832)生まれ。京都の公家大納言烏丸光政の嗣子。王政復古後参与職に任じられ、征討参謀として大和国へ出向したのち、大総督宮と三条実美左大臣附属として関東表へ下向します。慶応4年5月江戸府知事に任じられ、東京府発足後初代府知事に任じられました。正式な任用は8月20日です。同年11月7日には退任しますので、在任期間はわずか2ヶ月余りでした。

土方大一郎(久元)は、天保4年生まれ。元土佐藩士、この直前まで鎮台府判事として南市政裁判所で白洲もの(=訴訟・裁判・取り調べ等)を取り扱っていました。ここに書かれている「白洲(しらす)」とは、時代劇にもよく登場する御白州のことです*4。すでに判事として裁判の経験のある土方が引き続き担当したものと思われます。彼は後にこのときの経験を書き残しています*5

江戸から東京へ、激動の時代、町奉行所から市政裁判所、そして東京府へと、江戸・東京市中の行政・司法・警察を司った組織がどのような変遷を遂げていったのかを物語る貴重な資料です。

資料の画像は、当館デジタルアーカイブでもご覧いただけます*6。今回ご紹介した資料の他にも多くの興味深い文書が綴られています。ぜひ一度ご覧ください。

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