資料解説?井上鉄道局長の上野駅用地確保~「ナンデモカデモトラセテヲクレ」
日本鉄道会社の上野・高崎間の鉄道建設は、同社から実務を委託された工部省鉄道局が行いました。その際、鉄道局は上野公園の東側の平坦地にターミナル駅を建設すべく用地確保に乗り出しました。
江戸時代、この場所には寛永寺の子院群(下寺と総称)が並んでいましたが、維新後、それらの子院は転出して、跡地は農商務省管轄の官有地となっていました。これを上野駅および線路の用地として日本鉄道会社へ貸し渡すことは順調に認可されました。しかし、その隣接地では問題が浮上しました。
子院群跡地の南側に隣接し、ちょうど上野広小路方面の出入り口にあたる区画では、駅建設が構想される前から下谷区の区会議事堂の建設計画があり、すでに工事も始まっていました。また下谷区の公立小学校の建設も計画されていました。さらにはこの場所に居住し商売をする人々もいました。この区画は江戸時代には山下火除明地と呼ばれる防災用の明地でした。そしてその明地に沿った道路上では幕府の許可を得た床店(露店)が営業していました 注1 。維新後、この区画は官有地となりますが、床店の営業権を引き継ぐかたちで、官有地を拝借した人々がいたのです。この区画には下谷区上野山下町壱番地という地番が付与され、人々はそこで戸籍編入もされていました。本資料中で「拝借人」と呼ばれているのがこれらの人々です 注2 。
そのため、上野駅の中心市街地方面の出入り口を確保するには、区会議事堂と小学校の建設を取りやめ、拝借人たちを立ち退かせることが必要だったのです。
この問題で鉄道局からの照会を受けた東京府は、下谷区長の「意見」を一応「尋」ねることにしたのですが、実際の区長への意見照会においては、「鉄道線ニ係ル事業」は「別段」のことであり、従ってすでに許可が下りている区会議事堂や学校の建設用地などであっても「返地」の達を出すべきだという見解を断定的に示しています。そして「明日中、必御回答」をせよと指示しています。こうして東京府は下谷区に対し鉄道局の意向に沿うことを非常に強く求めたのです 注3 。
下谷区長はこの東京府からの照会に答えて、区会議事堂と学校の建設は「当区ニ於テハ重大之事件」だと述べています。区会議事堂や学校よりも鉄道が問答無用で優先される状況に対して精一杯の抵抗姿勢を示しているようにも読み取れます。その上で区長は、区会議事堂の建設中止などによる「多分之損失」を「鉄道局より償還」するなどして「下谷区ノ請求ニ相応」じてほしいという意見を示しています 注4 。
区長からの返答を受けた東京府は、当時、群馬県の伊香保温泉に滞在していた鉄道局長の井上勝(まさる)へ電報を打ち、区会議事堂・学校の代替用地と下谷区および拝借人に対する補償金とを準備すれば問題の区画を上野駅建設用地に加えることができると伝えました 注5 。
これに対する井上勝からの返信が、今回紹介した資料の末尾にある電報です。「ナンデモ。カデモ。トラセテヲクレ。スコシノ。カネハ。イトハナイ。」。
電報を受けた東京府が、井上の意向を下谷区長へ伝えるべく起案した区長宛の達の按(案)文を含む決裁文書も紹介しました。
この下谷区長宛の達が出されて以後は、上野駅建設用地の確保は順調に進み、明治16(1838)年7月には仮駅舎を利用した上野・熊谷間での鉄道輸送が開始されます。
幕末にイギリスへ留学した5人の長州藩士、いわゆる長州ファイブの1人として、イギリスで鉄道技術を学び、明治政府では「職掌は唯クロカネの道作に候」を旨として日本の鉄道発展に全身全霊を傾けた鉄道の父・井上勝。その剛腕ぶりを今に伝えるエピソードは少なくありませんが、この電文もそのひとつに加えてよいのではないでしょうか。
「何でもかでも取らせておくれ。少しの金は厭わない」
注
- 小林信也『江戸の民衆世界と近代化』第1章(山川出版社、2002)
- 東京府文書『上野山下床店一件・全』(請求番号:607.C7.8)、『回議録・上野山下町1番地中田兼吉拝借料徴収ノ件』(請求番号:611.B8.2)
- 明治15年8月17日付「下谷区長宛の東京府租税課長による尋」(東京府文書『明治十三十四十五十六十七年 上野山下町停車場ニ係ル回議録』 請求番号:614.C9.8)
- 明治15年8月18日付「東京府租税課長宛の下谷区長による回答」(同上)
- 明治15年8月21日付「鉄道局長宛の東京府知事による電報」(同上)
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
参考文献
小林信也「コラム・停車場」(佐藤信・吉田伸之編『新体系日本史6 都市社会史』山川出版社、2001)