尖閣諸島について

尖閣諸島について

概要

 尖閣諸島は、南西諸島西端に位置する魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬などから成る島々の総称です。沖縄本島から最も大きな魚釣島まで410㎞の距離があります。
 かつては鰹節工場があり日本人が住み着いたこともありますが、現在は無人島となっています。行政的には沖縄県石垣市の一部です。

 島の名称(ローマ字表記)、 面積
 ○ 魚釣島 (Uotsuri Shima) 3.6㎢ : 3Dマップ
 ○ 北小島 (Kita Kojima) 0.26㎢ : 3Dマップ
 ○ 南小島 (Minami Kojima) 0.32㎢ : 3Dマップ
 ○ 久場島 (Kuba Shima) 0.87㎢ : 3Dマップ
 ○ 大正島 (Taisho To) 0.04㎢ : 3Dマップ

 ※3Dマップは、「東京都デジタルツイン3Dビューア」でご覧いただけます。
  (サイトポリシーへの同意が必要です。)
 ※魚釣島のマップにはストーリー機能がついており、調査報告書(R4石垣市実施)の一部が確認できます。
 

  • 尖閣諸島(魚釣島、北小島、南小島、久場島及び大正島)の位置関係
  •  日本政府は1885年から1895年にかけて尖閣諸島の領有状況を調査し、隣国の清国など、いずれの国にも属していないことを慎重に確認したうえで閣議決定し、日本の領土に編入しました。

     その後、日本人が入植し、アホウドリの羽毛の採取や鰹節の製造などが行われました。最盛期には248人の日本人が暮らしていたとされています。

     第二次世界大戦後は、サンフランシスコ平和条約に基づき、米国の施政権下に置かれ、1972年に我が国に返還され、現在に至っています。



尖閣に関する年表

1885年(明治18年)以降

沖縄県からの上申に基づき実地調査を数度にわたり実施

→ 清国による領有の事実がないことを慎重に確認

1895年(明治28年) 閣議決定により尖閣諸島を沖縄県に編入
1896年(明治29年) 沖縄県在住の民間人に無償貸与。その後、鰹節工場などを設置
1932年(昭和7年) 民間人の所有となる
第2次世界大戦後 沖縄の一部としてアメリカ合衆国の施政下に入る
1951年(昭和26年)9月 サンフランシスコ平和条約署名。尖閣諸島への日本の主権は残存
1968年(昭和43年) 国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の沿岸鉱物資源調査報告が、東シナ海に石油埋蔵の可能性ありと指摘
1971年(昭和46年)

米国との沖縄返還協定署名。米国から日本に対する施政権の返還の合意

返還対象区域に尖閣諸島が含まれている

同年 中国・台湾が公式に領有権を主張
1997年(平成9年) 国会議員ら4名魚釣島上陸(石原元都知事も船に同乗)
2004年(平成16年)3月

魚釣島に上陸の中国人活動家7名を沖縄県警が現行犯逮捕。送検せず

全員を強制送還

2010年(平成22年)9月

尖閣諸島沖で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突

船長を公務執行妨害容疑で逮捕

2012年(平成24年)9月 民間人が所有していた魚釣島、北小島、南小島を日本政府が買い取り、国有化

都の取組

 尖閣諸島については、2012年(平成24年)4月に石原元都知事が東京都による購入と活用を発表し、これに賛同する都民・国民から14億円を超える寄附金が集まりました。
 同年9月2日、都は不動産鑑定のための現地確認及び活用方策検討に向けた基礎的調査を目的として、洋上から現地調査を行い、地元漁業者のための施設の設置や、自然環境の保護などの必要性を確認しました。
 同年9月11日に島々は国の所有となりました。都は、尖閣諸島の所有者となった国に島々の活用について働きかけることとし、会計年度を越えて寄附金を厳格に管理していくために「基金」を設置しました。
 今後は、この基金を国に託すため、石垣市など地元自治体とも連携し、国への提案等を行いつつ、国の動向を見極めながら、寄付金を寄せていただいた都民・国民の皆様の志が活かされるよう対応していきます。

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