史料解説~公園はワンダーランド その二

これは明治十年(一八七七)三月二十二日の照会文です。

羽生民(たみ)が、浅草公園で興行していた西洋目鏡の見世物について、開催期間延長を願い出たものです。民という名前から、おそらく女性の興行主であったと考えられます。

西洋目鏡とはレンズを使って画や写真を見せた覗(のぞき)眼鏡のこと。「舶来覗眼鏡」「西洋覗からくり」などともいわれました。覗眼鏡は、江戸時代に伝わり、西洋絵画の遠近透視図法を取り入れ、奥行を表現した絵画をレンズを通して覗かせるものでした。明治期に入ると西洋の風景を描いた絵や写真を見せるようになり、文明開化の新奇な見世物として流行しました*1

江戸・東京の様々な出来事を年代順に書き記した「武江年表」*2 には、明治五年(一八七二)夏頃「所々の西洋画の覗きからくりを造り設、見物を招く、夏の頃より浅草寺奥山花屋敷の脇に始る」とあり、浅草に続いて神保町二丁目、同一丁目、増上寺山内に二か所、芝大神宮、田村小路、烏森稲荷社、芝日陰町、浅草寺淡島社後、九段坂上、湯島天神下、御蔵前床店、麹町平河天神内、下谷御成道西側、四谷あらき横町、淡路町、車坂町と東京のあちらこちらに続々と登場していたことがわかります。 実はこの出し物、もともと明治五年七月に伊東孫一郎が始めたもので、まさに西洋目鏡の魁(さきがけ)だったのです。民さんはその営業を明治八年(一八七五)六月に譲り受けています。その時の文書*3には「写真目鏡興行」と記されているので、西洋の風景写真を、レンズを通して覗かせるものだったようです。

さて差出人にご注目。大警視川路利良代理、中警視安藤則命となっているのにお気づきでしょうか。明治十年(一八七七)三月と言えば、西南戦争の大きな分岐点となった田原坂の戦いが行われた時期。川路は二月から京都に出張し、同月十九日に鹿児島征討が命じられると陸軍少将を兼任、警視庁の精鋭を集めた警視隊(別働第三旅団)を率いて指揮を執っていましたから東京にはいなかったのです。彼が帰京したのは七月十三日で、およそ半年の不在でした。*4

たった一枚の書類ですが、よく見ると当時の世相をうかがうことができます。

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