史料解説~明治初期の願書を読む

当館所蔵の東京府文書中には、「大夫士伺願1上・下・2~4」(5冊)「大夫士伺願留5」と題した簿冊があり、いずれも明治2年(1869)に提出された願書が綴られています。弁事や弁官*1宛てに記されているので、東京府を経由して政府に提出されたものと考えられます。

差出人は誰?

署名には、徳川従四位とありますが、従四位とは差出人の当時の位階です。本願書は、当時水戸藩主であった徳川昭武が、清水徳川家の家名相続を願い出たものです。

清水徳川家

清水家は、宝暦9年(1759)九代将軍家重の次男重好を当主として創設され、田安家・一橋家と共に「御三卿」と称されました。御三家(紀伊・尾張・水戸)の次席で、御三家同様に宗家に嗣子がない時は宗家を継承する資格を有していました。

御三卿は大名のように独立した領地を持つことはなく、江戸城内に屋敷を与えられ*2、家臣も幕府から派遣されるなど、将軍家とは家族のような関係でした。

清水家の、江戸時代最後の当主となったのが、徳川昭武です。

徳川昭武

嘉永6年(1853)9月24日、第9代水戸藩主・徳川斉昭の18男として誕生した昭武は、慶応2年(1866)11月に清水家を相続します。同時に、兄である第15代将軍徳川慶喜の名代として、パリで行われる万国博覧会へ派遣されることとなり、翌3年1月、使節団を率いて横浜を出港しました。3月にはパリに到着し、ナポレオン3世に謁見。スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを親善訪問した後、パリに戻り留学生活をスタートします。しかし、この年10月に慶喜は大政を奉還、12月には王政復古の大号令が発せられ、状況が一変。新政府から帰国命令を受け、明治元年(1868)11月に帰国しました。 昭武は同年4月に死去した兄・第10代水戸藩主徳川慶篤(徳川斉昭の長子)のあとを受けて、第11代水戸藩主となりました。

その後の清水徳川家

昭武が水戸藩主となったことで、清水家は当主不在となってしまいました。本願書によれば、清水家に仕えていた家臣達は、日々昭武のもとを訪れては、清水家の家名相続を訴えました。昭武は、旧家臣らの思いを汲み、本願書を提出します。そのかいもあって、明治3年(1870)2月、昭武の甥(慶篤の次男)常三郎(のち篤守)が、清水家を相続することとなりました。

当館情報検索システムでは、所蔵資料の目録情報を簡単に検索することができます。ぜひ一度お試しください。

ページの先頭へ戻る

東京都公文書館 Tokyo Metropolitan Archives
〒185-0024 東京都国分寺市泉町2-2-21
Copyright© Tokyo Metropolitan Archives. All rights reserved.