「回議録 諸願伺」は東京府庶務課の作成した簿冊で、同簿冊には明治十(一八七七)年に府民が東京府へ提出した願書や伺書が綴られています。
今回紹介した史料も綴じられていた願書の一つです。
この願書は、東京府豊島村二十二番地に住居する島村弥三郎から、当時の東京府知事楠本正隆へ提出されたものです。
明治元年に島村が下掃除(糞尿などの汲み取り)のために東京へやって来た際、御一新の混乱のなか、浅草御蔵の構内の堀に「千両箱」のようなものを沈めている人々を目撃したようです。
その証言に基づいて願書が提出されました。
願書のなかからは、十年も前のことですが、甥の渡辺文次郎らの勧めもあり、願書提出に踏み切った様子がわかります。
願書によれば、島村は浅草御蔵近辺を通船している時に、金を沈めている様子を見かけたようです。
浅草御蔵は、江戸幕府がその直轄地から年貢米や買い上げ米を収納し、保管した倉庫で浅草御米蔵ともよばれました。
十九世紀初頭の文政期にはおよそ三十八万石余の米が収納されていたといいます。
場所は、現在の蔵前橋とJR総武線の間にあり、対岸には国技館や旧安田庭園があるあたりです。
御蔵には一から八番までの堀が設けられ、四番堀と五番堀のあいだには、広重の絵でも有名な「首尾ノ松」がありました。
明治維新後は新政府に接収され、内務省などによって管理されました。
明治七(一八七四)年には、八番堀の旧米蔵跡に湯島から日本最初の官立有料公開図書館である
ここに所蔵されていた書籍は現在も「内閣文庫」として国立公文書館に伝わっています。
さて、島村が金を沈める人を見かけたのは、御蔵の南側である五番・六番の堀あたりを通りかかった時のことであるといいます。
願書中には「構内」とあるので、おそらくこの五番堀か六番堀のどちらかに埋められたのだろうと考えられます。
願書を提出された東京府は、庶務課が回議書を作成し審議すると共に、大蔵省出納局へも照会しました。
そうしたところ、「米穀運搬之障碍」にならないようにすれば、探索をしても構わないという回答を得て、七月二十八日に東京府から島村へ通達しています。
この後、実際に島村は探索をしたのか、また「埋メ金」は出てきたのか、などの点については史料に綴られておらず詳細はわかりません。
現在、浅草御蔵の堀は埋め立てられてしまい、当時の様子はほとんどわかりません。
埋蔵金は浅草御蔵にあったのか。今となってはその真相は闇の中です。