資料解説~ より良い下水道を目指して

公文書による決定と「回議」

この文書は、東京市参事会の回議用紙を用いて、明治44年7月18日に内記課が起案したものです。

「回議」や「起案」といった言葉が出てきたので、ここで公文書を用いて案件が決定されるまでの過程や用語について、少し詳しく説明しましょう。

東京市としてある意思決定をしようとする時、その事案を担当するセクションがその基礎となる原案を作成しますが、これを「起案」といいます。起案された文書は、より上位の関係者に回されて承認をうけ、最終決裁者による決裁がなされます。このように起案文書を回していくことを「回議」といい、その文書が最終決裁を経て施行されたとき、その文書は「完結」したことになります。こうした回議用紙を用いた意思決定方式は、東京都制の施行(昭和18年)以降も引き継がれ、昭和42年に「決定書方式」に変わるまで、続けられました*1

今回ご紹介した文書では、内記課によって起案された文書が、内記課長、技師長(日下部辨二郎)、助役(宮川鐵次郎、田川大吉郎)、市長(尾崎行雄)に回付されて決裁を経た後、翌19日の参事会で議決されたことがわかります*2。ここで登場する参事会とは、市会と並ぶ議決機関で、市長、助役3名、名誉職参事会員12名の計16名によって構成されていました*3

ではなぜ回付された順番までわかるかというと、通常回議用紙では、意思決定の上位者から、上から下に向かって役職・決裁印が配置されるため、その逆のルート(下から上へ)をたどっていけば、回付された順番が判断できるのです。

以上の過程を経てこの文書が決定→施行、すなわち「完結」したことは、欄外にそのことを示す印が押されていることでわかります。完結した文書は分類・編綴(簿冊に綴じ込むこと)を経て保存されますが、簿冊にする際、文書のまとまりごとに連番がふられました。当館では綴込番号と呼んでいますが、欄外に朱書きされた「五〇六」という数字がこれにあたります。

なお当時の文書取扱規程では、もし文書中に間違いなどあれば、主務課長に通知して訂正させることになっていました*4。この文書でも、訂正のあった個所の欄外に、訂正内容と内記課長の印を確認することができます。

欄外に「辞令七月二十日」とあるように、本件が議決された翌日には、米元に欧米派遣を命じる辞令が発せられました。

当時の下水道事情と東京市の施策

続いてこの文書が作成された背景を知るために、この頃の東京市の下水道事業の概要について見ておきましょう。

明治10年(1877)から23年(1890)までコレラが断続的に流行し、特に明治十五年の大流行では東京十五区で死者四千五百人以上を出す惨事となりました。下水道整備の必要性を痛感した政府は、明治16年に東京府に上下水道の改良を示達します。翌17年には政府による補助金交付が決定し、東京府は事業計画を立案、同年中に神田下水の工事に着手しますが、3年目に国家補助が不許可となり、計画は中止となりました。

その後明治21年に東京市区改正委員会*5に上下水道の設計調査委員会が設けられ、検討が進められました。同委員会では、上下水道事業の実施には膨大な費用を要するため、当面上水道を優先させる方針を同年10月に決定、東京市の下水道事業は中断してしまいます。

しかし、産業の急速な発展と人口集中に伴い都市環境が悪化したことを背景に、明治33年(1900)には下水道法が制定され、37年には市区改正委員会が中島鋭治東京帝国大学教授を臨時委員に任命、下水道設計計画を委嘱します。同教授の報告書をもとに作成された「東京市下水道設計」は41年(1908)3月に閣議決定され、東京市の下水道事業が再始動することとなりました。

明治44年には第一期工事が認可され、同年6月には東京市役所内に下水道改良事務所が設置されて、下水道改良の推進を開始しました。

米元は、東京市が一時中断していた下水道整備を本格化させようというまさにその時期に、東京市役所の吏員となり、その一翼を担うことになったのです。下水道改良事務所に配属後すぐに欧米派遣を命じられたことから、米元に向けられた期待の高さをうかがうことができるでしょう。

視察の概要とその成果

米元の欧米視察調査は、約9ヶ月かけて行われました。派遣命令を受けた翌月、8月13日に東京を出発、往路はシベリア鉄道でドイツ、イギリス、フランス、オーストリア、ベルギー等のヨーロッパ諸国を巡りました。ついでアメリカに渡って各都市を視察した後、太平洋を横断して明治45年5月10日に帰国します。

この当時、ヨーロッパでは大都市の下水道管きょ網は一とおり完成し、大都市の郊外部や中小都市で活発に下水道整備が行われていました。しかし管きょが整備された結果、多くの汚水がそのまま河川に流入することになり、河川の水質汚濁が進んでいきます。そこでいかに下水を処理して放流するか、複数の処理法が模索されていた時期といわれています。米元は欧米各都市の先進的な取組みをつぶさに見て回り、視察で学んだ下水処理技術を日本に持ち帰ったのです。

帰国後の米元は、下水道改良工事顧問会(既定の計画を再検討するために明治44年9月に設置)で提言し、既定計画の雨水量算定式を欧米各地で普及しつつあった方式(「合理式」)に変更したり、新しく建設する三河島汚水処分場*6に最新の英国式の下水処理法(散水ろ床法)を導入させるなど、視察の成果を実際の下水道整備に反映させていきました。

その後も米元は東京市で下水道事業のエキスパートとして活躍、大正4年(1915)には臨時下水改良課長、大正9年からは臨時水道拡張課長も兼務しました。翌10年には、東京市で起きた疑獄事件で部下2名が収監されたことを受け、東京市を去りますが*7、その後も豊富な経験・知識を活かして各地の下水道整備を指導し、日本における下水道の発展に大きく貢献しました。

おわりに

今回ご紹介した資料は、冒頭でも述べたように、吏員の人事を担当する課が作成した事務的な文書の一つです。しかしこの海外派遣で米元が得た最先端の知見が、東京の下水道整備に活かされ、近代下水道施設の先駆けとなったことから、日本における下水道技術の発展に大きく影響を与えた出来事の記録と位置付けることが可能です。

既に述べたとおり、明治17年に東京府が策定した下水道計画はとん挫し、明治20年代に入っても、様々な社会基盤を整備する必要に迫られるなかで、東京の下水道整備は後回しにならざるを得ませんでした。しかし30年代には、東京市で下水道改良の必要が認識されて具体的設計がなされ、40年代には、これを本格的に推進する段階に至っていました。こうした状況下、下水道を専門とする吏員の海外派遣は、より良い下水道施設の建設をめざす施策の一環だったのです。この文書は、苦難の草創期を経て再び動き出した東京の下水道事業のあゆみを、今に伝える資料と言えるでしょう。

参考文献
  • 下水道東京100年史編纂委員会『下水道東京100年史』東京都下水道局 平成元年
  • 東京都『東京都政五十年史』事業史1 平成6年
  • 谷口尚弘「解説 東京都下水道の基礎を築いた下水道技術者 米元晋一」〔米元晋一著〕『下水道調査報告書 その1』東京都下水道サービス 平成21年
*注
  1. 東京都総務局総務部文書課『東京都文書事務の手引』平成30年、69~71頁
  2. 人名は、東京市役所編『東京市職員録 明治四十四年七月一日現在』(読売新聞日就社、明治44年)を参照
  3. 明治21年(1888)4月公布の法律第1号市制町村制で、参事会は合議制の執行機関と規定されますが、明治44年4月の市制改正で、参事会は市長の諮問機関として位置づけられ、執行機関は市長独任に改められました(東京都公文書館『都史資料集成』第2巻 平成12年、参考資料9頁)。しかしこの頃の東京市では、市政における参事会の影響力は依然大きく、市長権限に属する事項も慣例的に参事会に付議されていました(大島美津子「再編期の東京市政の構造と機能」東京市政調査会首都研究所『東京の政治および行政の展開(続)』首都計画に関する基礎調査 昭和37年度調査報告No.7 昭和38年、櫻井良樹『帝都東京の近代政治史』日本経済評論社 平成15年)。
  4. 東京市役所内記課『東京市例規類集 明治40年』明治40年(請求番号:市刊H31)
  5. 明治21年8月公布の「東京市区改正条例」に基いて、内務大臣の監督の下、東京市区改正(都市計画)の設計や年度計画を決めるために設置されました。委員の任命は同年9月に行われ(委員長は内務次官の芳川顕正)、第1回の委員会は同年10月5日に開催されました。
  6. 隅田川中流に位置する下水処理施設で、東京市区改正事業の一環として大正3年着工、米元を中心に建設がすすめられ、大正11年(1922)3月に稼働しました。日本最初の近代下水処分場の遺構として、旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場が、平成19年に国の重要文化財(建造物)に指定されています(東京都『東京都政五十年史』事業史1 平成6年、744頁、東京都下水道局ホームページ
    https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/business/b4/guide/s-mikawa/)。
  7. 『東京朝日新聞』〔夕刊〕大正10年2月18日付

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