資料解説~神社明細帳を読み解く~八幡神社(国分寺市)

八幡神社(国分寺市)について

八幡神社は、国分寺市西元町一丁目13番地23に現存する神社です。西国分寺駅から徒歩5分、武蔵国分寺(真言宗豊山派)薬師堂南西にあり、国分寺崖線をまたぐように位置しています。崖上には境内、崖部分に階段、崖下に鳥居が設置され、敷地にはかなりの高低差があります。現在は崖上に狛犬、鳥居、東脇に末社、参道突き当りに社殿が建ち、その東側には氏子会館が設置されています。境内には記念碑が二基、建てられています。

昌平坂学問所地理局が文政13年(1830)に編さんした『新編武蔵風土記稿』によると、「(国分寺村)八幡社 薬師堂山林の内にあり、二間に三間の覆屋あり、村内鎮守、国分寺持」と記されています。

資料の解説~明細書を読む

江戸時代の末までは、多くの神社は寺院と同じ境内のなかにあり、神も仏も一緒に祀られ、参詣者は区別することなく礼拝していました。いわゆる神仏習合の形態でした。 明治新政府は、慶応4年(明治元年/1868)3月に神仏の混淆を禁止し、仏像を神体としてきた神社は、仏像や仏具の類を取り除くように達しました(神仏分離令)。八幡神社は仏像が神体ではないものの、『新編武蔵風土記稿』にも記されているように、武蔵国分寺が管理する神社として祭祀も行っていました*1

その後、新政府は祭政一致の大方針のもとに、明治4年(1871)5月14日の太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」をもって神社を国家の宗祀として社格*2を定め、神社・寺院の実態・実数について本格的に調査を開始しました。明治12年(1879)6月28日に「内務省達乙第31号 神社寺院及境外遙拝所等明細帳書式」をもって一定の様式が定められ、神社・寺院明細帳の調製が各府県へ命じられました。これはその後、国家の公的台帳として政府と各道府県とに備え付けられ、公認の神社・寺院であるためには必ずこれに登載されなければなりませんでした。

本資料は、提出日が明治12年(1879)10月となっていることから、「内務省達乙第31号」に従って作成、提出されたものと考えられます。資料中に明治40年(1907)1月28日の朱字、欄外に昭和10年(1935)9月23日、付箋に昭和13年(1938)8月16日、昭和16年(1941)9月23日の記述があることから、資料が神社の台帳として昭和期まで使用されていたことがわかります。

社格は「村社」、祭神は「応神天皇」。社格は、「由緒」に朱字で辛未(明治4年)10月に村社に列せられたと記されていることから、明治4年(1871)の太政官布告をもって、国分寺村社として格付けられことがわかります。祭神の応神天皇は、第15代天皇で、『日本書紀』には譽田天皇(ほむたのすめらみこと)、八幡神として神格化され、全国各所に祀られています。国分寺村では氏神として「八幡神」を祀ってきたことがわかります。

所在地は、「神奈川県北多摩郡国分寺村大字国分寺八幡前一六二四」、提出者は「国分寺村戸長小柳九一郎」、提出先は、「神奈川県令野村靖」となっています。その後昭和40年(1965)9月1日の町名地番整理で「西元町一丁目」に変更されました。

所在地および提出先が「神奈川県」となっているのは、明治26年(1893)4月1日に西・南・北多摩郡(三多摩)が東京府へ移管されるまで国分寺村が神奈川県に属していたことによります。つまり、この資料を含む資料綴は神奈川県から東京府へ引き継がれたものであることを意味します。

戸長の小柳九一郎(1859-1930)は、明治22年(1889)に開通する甲武鉄道の国分寺駅開設のために所有地を提供したことで知られ、国分寺村長や東京府会議員などを務めた、国分寺を代表する名士の一人です。

「由緒」は、「古代由緒沿革ノ義未詳」で、享保5年(1720)3月に社殿が新造されたと記されています。添付平面図は、明治12年に届出時の状態、つまり享保5年竣工の本社と拝殿を示しています。平面図上に記された朱の点は拝殿の外側に巡る縁を支えるための束の位置を示しています。「社殿間数」と平面図に、明治40年(1907)1月28日末に拝殿その他の新築許可を得て、翌年12月10日に落成と朱書きで追記、欄外には昭和10年9月23日の石燈籠の建設、付箋には、昭和13年8月16日、昭和16年9月23日に敷石造設の許可について記されています。現地を訪れてみると、参道を上って左手に「奉納 紀元二千六百年記念 八幡神社参道コンクリート工事一式、修繕費金弐拾円也 国分寺町 小柳忠蔵 昭和壱六年九月吉日 工事請負人 池谷桃太郎建之」と彫られた記念碑が設置されていることから、昭和16年の敷石造設は参道の整備であったとわかります。

ただし、すべての変更が記録されているかというとそうではありません。現地で確認できる「明治廿五年壬辰年一月吉日建之」と彫られた鳥居、昭和8年奉納の狛犬や末社に関する追記はありません。どのような判断基準で台帳に記録されていたのか、検討の余地はありそうです。

社殿のうち「本殿」の「間数」は間口が2間3尺(約4.5m)、奥行が4間(約7.2m)、「境内坪数」が513坪(約1700㎡)*3、「地種」が「官有地第一種」*4、「氏子戸数」は94戸全て国分寺村の氏子とされています。管轄官庁までの距離、すなわち神奈川県庁(現在も同じ位置)まで11里半(約46㎞)*5、どの道程で計測されたか不明ですが、フルマラソン以上の距離であったことがわかります。

このように、明治新政府は、地域で祀られてきた神社を体系化して管理するようになり、こうした管理のための台帳が地域の神社を知るための貴重な歴史資料として残ったのです。ぜひ、当館の所蔵資料を片手に神社をフィールドワークしてみてはいかがでしょうか。

  1. 国分寺市編『国分寺市史』中巻、平成2年、277頁
  2. 明治4年(1871)5月14日の太政官布告「官社以下定額・神 官職制等規則」では、伊勢の神宮は特別の格のものとして官制を設け、全国の神社は、官社と諸社とに分けられ、官社は官幣社と国幣社として、それぞれ大中小の社格が定められました。官幣社とは本来、神祗官から奉幣する神社をさし、古代から皇室の崇敬が特に厚く、由緒の格別に重い神社、歴代の天皇、あるいは皇族を祀る神社が列せられました。国幣社は元来、国司が奉幣する神社をさしましたが、改めて例祭に国庫から奉幣する神社とされ、古くから一国の一の宮あるいは総社として崇敬を集めてきた神社が、これに列せられました。官社に対して諸社と呼ばれる神社は、県(府)社・郷社・村社・無格社に分けられ、地方において尊崇される神社について、祭神と由緒の面から社格が定められました。各社には地方の生活に密着していることから氏子が多数存在しました。(『日本大百科全書』(1984~1994刊:全26巻など)
  3. 1間=6尺(1尺=約30㎝)=約180㎝として計算した場合
  4. 太政官布告第120号(明治7年11月7日)、内務省達乙第84号の別紙(明治7年12月28日)の区分で、皇宮地神社が官有地の第一種とされました。(佐藤甚次郎「明治前期の地籍図:その2地籍編成事業で調製の地籍地図」日本地理教育学会編『新地理』第30号、昭和58年)
  5. 1里=約4㎞

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