資料解説~江戸各郷村図を読む

地図の北側の端には「入間川」があり、現埼玉県の「所澤」や「川越」の地名がみえ、南側には「品川」から現神奈川県の「藤澤」を通り「箱根」に続く「東海道」が、その先には「不二(富士)山」や「相模山」までの範囲が記されています。

「相模山」から「玉川」近くにみえる「関戸 古名小山田関」より、「川越」に向かう「古奧州海道」の途中には、「国分寺」や「戀(恋)ヶ窪(こいがくぼ)」という地名が確認できます。現在、新しく開館した東京都公文書館はこの辺りに位置します。

「玉川(多麻川)」の北側に位置し、東西にわたる「江戸海道」が甲州街道です。絵図の中心部には、街道沿いの「布田五宿」と「日野宿」との間に、東から西へと「新宿」「番場宿」「本宿」と府中三宿が続いています。その中央には、緑色の「杉森」に囲まれた「六所宮 本社」がみえます。六所神領は、天正19年(1591)11月に徳川家康より社領500石(「神領八幡宿」が寄進され*1、神主は年頭と将軍代替りごとに江戸城に登城し、将軍に御礼を言上することが恒例となっていました。朱印社領は、明治4年(1871)まで維持され、同年には社号を現在の大國魂(おおくにたま)神社と改称します。

「本社」から「随身(神)門」をくぐり「二ノ鳥居」に目を移しますと、鳥居の両端に「高札」があることが確認できます。『新編武蔵風土記稿』によりますと、1つ目は馬市に関する法制が書かれていたとあり、2つ目には社地内の竹木伐採や牛馬の通行等を禁じた掟書を掲げられていたと書かれています。同書には、1つ目の高札の文面が記載されています。それによると、馬市を立てることは、5月3日の駒くらべに始まり9月晦日までに限ることを守るようにと書かれています*2

現在、この「駒くらべ」ですが、4月30日から5月6日まで大國魂神社の例大祭「くらやみ祭」の中で、競馬式(こまくらべ)が行われており、府中高札場は、東京都指定文化財(旧跡)に指定されています。

絵図の中央部に位置する六所宮(現大國魂神社)の「杉森」の両端には、「欠馬小野駒古跡」「細馬仝(同)」とみえます。「欠馬」とは、恐らく「駆(駈)馬(かけば)」のことで速く走る馬を指し、「細馬(さいば)」はすぐれた馬、良馬を意味することから、かつてこの「駒古跡」で馬市が開かれていたのではないかと推測されます。

いつ頃から始まったのかは定かではありませんが、関東の馬市としては佐倉(千葉県)と並び、府中の馬市は名高いものでした。大坂の陣勝利の吉例として、幕府は御厩方役人を毎年派遣し、将軍に献上する馬を選び買い上げる慣習、「府中御馬買上の儀」を行うようになります。しかし、享保7年(1722)に将軍の乗り馬を馬市で買い上げることを止めたため、馬市も中絶となりました*3。馬市は、武士の乗馬のみならず百姓の小荷駄馬も売買され、また諸国近在から馬喰たちが集まって宿泊することにより、伝馬役を務める宿場の助成となっていました。そのため、馬市の再開を求める願書は度々提出され*4、八王子宿との調停の末、諸商品の売買を行わないという条件付きで認められたケースや*5、文化6年(1809)には、内藤新宿に府中宿馬市を出張して開催することにより再興します*6。その後は、資金繰りなどが困難になり*7馬市の開催も難しくなったようです。

さて、「六所宮」よりやや東の方角に「八幡宮」とあるのは武蔵国府八幡宮を指しますが、その近くに「天正ノ頃ヨリ御馬役下與市」と書かれています。この下与市(しものよいち)とは、幕府御家人の馬医下氏が拝領した屋敷地のことで、「御馬屋」「御預り厩」などと記されています*8。『新編武蔵風土記稿』によれば、身分的には若年寄支配下で50俵2人扶持の禄を受け、おおよそ3000坪の広さがあったことが書かれています*9。現在の場所でいうならば、京王線府中競馬場正門前駅の南側辺りと推測できるでしょう。

このように、「府中」には人々が馬と共に生活をしてきた形跡が数多く遺されており、この図面からもその光景を垣間見ることができるのです。

資料の画像は、当館デジタルアーカイブでもご覧いただけます*10。今回ご紹介した資料の他にも多くの興味深い絵図を公開しています。ぜひ一度ご覧ください。

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