史料解説~公園はワンダーランド その四

これは明治十一年(一八七八)十二月五日の照会文です。

出願者は、日本橋浜町一丁目三番地に住んでいた下岡蓮杖。文政六年(一八二三)伊豆下田に生まれた蓮杖は、はじめ江戸で絵師を志して狩野派に学ぶが、偶然銀板写真を見る機会を得て、写真に開眼したと伝えられます。苦心の末に写真術を習得し、文久二年(一八六二)横浜で写真館を開業します。上野彦馬とともに、日本の写真術創始者として知られ、彼の門下からは、横山松三郎や江崎礼二、中島待乳など著名な写真家が輩出しました。

史料には「浅草公園地ほノ十二番」に小屋を所持していることが記されています。どんな小屋だったのでしょうか?

蓮杖は明治九年(一八七六)頃第一線を退いて浅草に転居したと言われていますが、二年後の明治十一年に出されたこの願書では日本橋に在住していることになっています。「公園はワンダーランド その一」でご紹介したように、公園内の見世物小屋で暮らしてはいけない決まりでしたから、住居は別にあったか、または公的な願書にはそう書いたのかも知れません。ちなみに大正元年(一九一二)九十歳で褒章を受けた時の住所は、浅草公園第五区四九号で、浅草奧山と呼ばれる地域に住んでいました*1

明治九年四月七日の『東京日々新聞』には、蓮杖が浅草奥山に開いた見世物の評判記事*2が掲載されています。それによると、見世物小屋は「油絵茶屋」と呼ばれ、下岡蓮杖自らが描いた「函館の戦争の絵」や「台湾の合戦の図」が展示されていました。明治元年の箱館戦争や、明治七年に行われた台湾出兵の戦闘図で、その大きさは縦二メートルに横五.七メートルの大画面。等身大のパノラマ図でした*3。そのほかにも「日本にて油絵の元祖とも云ふべき司馬江漢の画ならびに其門人の画」や、「古今の名将、大儒等の肖像の額」が掲げられており、これら肖像は「近ごろ市中の写真屋にある家康公や藤房卿、菅公などの原本」と説明されています。展示されている画は、「曾て狩野家に伝ふる處の古図を以て西洋画に模擬し、影照(しゃしん)の原板(たねいた)に取りたる者」=狩野家にあった画を模写し、さらにそれを写真撮影したものでした。

明治十一年の出願では、「諸画其外諸器械」を見せると書かれています。これらの画のほかに、写真撮影の器械であるカメラなどが展示されていたのでしょうか。同年二月十七日の『読売新聞』には「先頃より蒸汽車の雛形を製造して居る浅草公園地の下岡蓮杖氏」が、「此節差わたし六尺(直径約一八〇㎝)ほどの風船を拵らへ其中へ音楽の器械を仕込み上へ登ると自然に音を発す様に出来あがッて近々に諸人へ見せる」と紹介されていますので、この何とも不思議な器械を見せていたのかもしれません。

蓮杖の手になる見世物小屋のあった土地は、明治十七年(一八八四)十二月に建物を撤去した後、翌十八年三月に返地届が提出されています*4ので、九年間にわたって見世物興行を営んでいたようです。

今回シリーズで取り上げた『公園地観セ物等警視往復』には合計一八〇件の照会文書が綴られています。そのうちの大部分が浅草公園での興行を出願したものです。いかに浅草が見世物興行の盛んな場所であったかがわかります。また紹介したもののほか、生きている人間そっくりの生人形、機械仕掛けのからくり人形、虎などの珍しい動物、サルや犬など動物の芸、楊弓店、待合茶屋、投扇、吹矢、植木、菊人形、踊り、落語、講談、浄瑠璃、物真似、相撲、ガス灯、エレキ、写真、西洋手品、貝細工、新聞縦覧所等々、ありとあらゆるものが出願されています。この機会に明治の見世物の世界を、文書を通して覗いてみてはいかがでしょうか。

当館情報検索システムでは、所蔵資料の目録情報を検索することができます。ぜひ一度お試しください。

ページの先頭へ戻る

東京都公文書館 Tokyo Metropolitan Archives
〒185-0024 東京都国分寺市泉町2-2-21
Copyright© Tokyo Metropolitan Archives. All rights reserved.