史料解説~公園はワンダーランド その一

これは明治十年(一八七七)正月十五日に、大警視川路利良の名前で当時の東京府権知事楠本正隆に宛てて送られた照会文です。

川路は旧薩摩藩士。明治七年(一八七四)一月、警視庁の創設に伴い初代大警視に就任、日本の警察制度の基礎を作った人物として著名です。明治十年に警視庁は廃止されて内務省内に警視局が置かれ、東京府下の警察業務を所管する組織としては、新たに東京警視本署が設置されています*1 。このため、料紙に「警視局」罫紙が用いられています。

宛先の楠本は旧大村藩士。この時は内務大丞と東京府権知事を兼任していました。

出願者は深川御船蔵前町(現江東区新大橋)に住む篠原米松。年の瀬も押し詰まった明治九年の十二月二十七日に願いが出されています。その内容は、深川公園の敷地に「八重垣」と称する「八陣運動場」をこしらえて、六十日間見世物営業をするというものでした。一体「八陣運動場」とはどんなものだったのでしょうか?

八陣を国語辞典などで引くと、「中国の兵法で、八種類の陣立」*2 などと説明されていますが、これでは見世物として成り立つようには思えませんね。実はこれ、迷路のことなのです。

日本に迷路がもたらされたのは明治七年、横浜野毛の四時皆宜園にできた「隠れ杉」*3が最初と言われています 。樹木を植えて迷路を作るもので、イギリスのハンプトンコート宮殿の庭園にあった迷路 *4をまねて設けられたといいます。当時の新聞にも前年の明治九年十月向島三囲神社のそばに「八重襷」、十二月末には神田花岡町の鎮火社に「杉葉細工智慧の輪道」が完成し、年明けから木戸銭をとるという記事が載っており*5 、どうやらこの時期に流行していたようです。

篠原米松は、他にも明治七年に飯田町で闘牛(牛角力)興行を行っていることが当館所蔵公文書*6 で判明しますので、興行師的人物であったと考えられます。流行を当て込んで、今度は深川公園に迷路をつくって一儲けしようと考えたのでしょう。

詳しい内容は、警視局への回答とともに願書が返却されてしまったため、残念ながらこれ以上はわかりません。どんな迷路だったのか体験してみたいですね。

当館情報検索システムでは、所蔵資料の目録情報を簡単に検索することができます。ぜひ一度お試しください。

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