まず、この拡大した印影を見てください(図1)。人間の顔のように見える変わったハンコですが、誰のものでしょうか。よ~く目を凝らして見つめると、頭髪が「田」に見えてきます。次に額にこぶのように見えるのが「口」です。眉と目で「卯」、そして鼻ひげと口で「吉」です。そう、田・口・卯・吉、「たぐちうきち」と読めますね。
田口卯吉(1855-1905)といえば、明治時代の有力経済雑誌である「東京経済雑誌」を主宰して自由貿易論を展開した経済ジャーナリストとして著名ですが、その一方で『日本開化小史』を著すなど史論家としても数多くの業績を残したことで知られています。また、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員にも選ばれ、政治家としても活躍し、とくに明治20年代から30年代にかけては、東京市参事会員として東京市の公共利益の実現のために力を尽くしました。その議論や行動からは真面目で誠実な人柄であったことがうかがわれるのですが、このハンコをみると、なかなか江戸っ子らしい茶目っ気というか、洒落っ気のある人物でもあったことがわかります。
さて、このハンコが捺された文書の全体を見てみましょう(図2)。東京市参事会が東京市会に提出した市有財産売却に関する議案を原案通り可決したという市会議長の報告書を供覧した文書です。市会議長の報告書や議案がこの次に続きます。
もう一つ書類をお見せしましょう(図3)。これは、明治22年10月に起案された、東京市歳入出追加予算の告示文案に関する文書で、議長以下参事会員が、それぞれ自分の枠内に決済印を捺しています。田口の印は十三番のところに見えます。
東京市は、明治22年(1889)5月1日に成立し、昭和18年(1943)7月1日、東京都の成立によって消滅しました。沿革的には、現在の東京都の前身ということができます。成立当時の東京市の区域は、麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川の15区、つまり現在の区で言えば、千代田、中央、港、新宿(一部)、文京、台東、墨田(一部)、江東(一部)の各区を含むごくごく狭い地域を範囲としていましたが、昭和7年(1932)と同11年(1936)の市域拡張により現在の23区の範囲に拡大しました。
昭和15年(1940)10月1日現在の東京市の人口は677万余、市長の任免にかかる東京市区職員数47,879名(昭和16年10月1日現在、内訳は市職員数39,782名、区職員数8,097名、東京市政概要昭和16年版)。基礎的自治団体としては空前絶後、わが国最大の規模を誇っていたのです。ちなみに、現在の基礎的自治団体で最大のものは横浜市で、人口は324万余人です(2000年国勢調査結果による)。
現在の基礎的自治団体(市区町村)が地方自治法を根拠として成立しているのに対して、この時代のそれ(市町村)は市制町村制という法律を根拠としており、今と較べていろいろと勝手の違ったところがありました。
まず、地方自治法では、首長は住民の直接選挙によって選出されますが、市制町村制時代の市町村長は、議決機関(市町村会)の選挙によって選出されました。
町村長は、現在と同じく単独の執行機関でしたが、市の場合、当初、執行機関は市長ではなく、市参事会という複数のメンバーによる合議制をとっていました。つまり、市長は存在していますが、執行機関としての意思決定はすべて市長もそのメンバーの一人である市参事会の合議によって行っていたのです。市長は単に市参事会の議長をつとめ、市参事会を召集し、市参事会の議事を準備し、市参事会の議決を執行し、市参事会の名を以て文書の往復をなし、これに署名するだけの存在であったにすぎません。市制第67条に「市政一切の事務を指揮監督し」とあるように、市長は、いわば合議制の執行機関の手足となる事務方のトップという位置づけだったと言えます。
市参事会のメンバーは、市長、助役、名誉職参事会員によって構成され、その定数は、市長(1名)、助役(東京は3名、京都・大阪は各2名、その他は1名)、名誉職参事会員(東京は12名、京都・大阪は各9名、その他は6名)でした。名誉職参事会員も市会によって選挙されますが、必ずしも市会議員中から選ばなければならないというのではなく、市の公民で満30歳以上の選挙権を持っている人なら誰でも参事会員になる資格がありました。東京市会は、できるだけ広く議員以外から人材を求めるようにしていたようです。
憲政の神様と言われた政治家尾崎行雄は、明治36年(1903)6月から同45年(1912)6月まで2期9年間、東京市長に在任しましたが、「自伝」の中で、この合議制の執行機関=市参事会における市長の地位ほど哀れなものはなかったとして、次のように回想しています。
当時の参事会は、決議機関ではなく、執行機関であつた。市長は参事会の決議を行ふだけの役人で、何等の職権もなかつた。法律の上では、小使一人の任免も、物品一個の買上まで、悉く参事会の職権であつた。たゞ実際には、或る程度以下の公吏の任免や、或る値段以下の物品の買入は、参事会の委任によつて、市長が掌つてゐた。
こうした執行機関の合議システムは、東京のような大都市においては、事務運営上大変に非効率で時代のテンポにあわなくなって来たので、明治44年(1911)の市制改正によって廃止され、以後は市長が単独で執行機関となり、市参事会は市会の補助議決機関になりました。それと同時に、参事会員の選出方法も市会議員の互選によることに改められました。
図2や図3に掲げた明治22年の東京市参事会の書類は、市参事会がまだ合議制の執行機関であった時代のもので、市長(議長)のハンコだけでは用が済まず、参事会員の決済欄にハンコが捺されなければ事案が決定しない形式になっていることがよくわかります。
図3、13番田口のとなりに捺されている14番「経」の印は芳野世経という人です。ベテラン議員で、生涯をちょんまげ姿で通したことで有名です。11番の「何」の印は何礼之(がのりゆき)です。この人は、長崎通詞の家に生まれ、幕末維新期に英学者として活躍した人です。明治4年岩倉全権公使にしたがって欧米を巡回し、後に内務大書記官を経て、東京市参事会員に選出されたときは元老院議官でした。モンテスキューの『万法精理』(明治8年)等多数の翻訳でも知られています。その上にある9番の「洪基」の印は渡辺洪基です。東京府知事から初代帝国大学総長となり、この頃はまだ総長在任中です。翌23年には特命全権公使としてウィーンに駐剳しています。帰国後は衆議院議員として活躍しています。
こう見てくると初期の東京市の参事会員には実に多士済々な人物が名を列ねていたことがわかります。
議長欄に「銀林」とあるのは、東京府書記官銀林綱男(後に埼玉県知事)で、本来ならば東京府知事高崎五六の捺印があるべきところですが、たまたま知事不在のため書記官の銀林が代理印を捺したものです。
ところで、なぜ東京市参事会の議長欄に東京市長が捺印しないで府知事が捺印するのでしょうか。どうして東京市の起案文書に、他の役所(東京府庁)の役人である府知事や書記官の捺印があるのでしょうか。そうした疑問の目で告示文案の末尾をよく見ると、東京市告示が「東京市参事会市長」名ではなく、「東京市参事会知事」名で行われています。なぜ「東京市参事会市長」ではなく、「東京市参事会知事」なのでしょうか。
それは、この時代の東京市が市制特例という法律の下におかれていたためです。この市制特例は東京市のほかに京都市、大阪市にも適用されていました。
この特例の眼目はと言いますと、上記3市には市長・助役を置かず、市長の職務は府知事が、助役の職務は府の書記官が行い、また市役所も設置せず、市の事務は府庁の各課が行うというものでした。
そういった事情から、本来市長が捺印すべきところに府知事やその代理である書記官のハンコが捺されていたのです。
東京市、京都市、大阪市のような巨大都市の自治体については、国の地方行政機関である府知事(官吏)とその属僚がその事務を行うという、一種変則的な「大都市制度」が実施されていたということができます。この市制特例は明治31年(1898)9月まで続きますが、その詳細については、また別の機会に説明したいと思います。