本所区復興図 ~公文書館のイチ押し資料

今回取り上げるのは、『本所区復興図』(東京印刷株式会社印行)です。本所区とは35区時代の区名で、現在の墨田区の一部に当たります。この地図は、東京府文書の「昭和8年・学務課・市立学校・冊の53」に綴じられていますが、名称からもお分かりの通り、関東大震災後の本所区の復興状況が読み取れるように作成されたことから、一般の地図とはやや趣を異にしている部分も見当たります。

本所区復興図

まずは、外観から見てみましょう。大きさはタテ116センチ、ヨコ75センチほどの表裏両面印刷の大判。拡げると普通のテーブルからははみ出てしまいそうです。

表の面には、本所区の全図とその周囲に橋や学校、駅舎など復興を象徴する建造物を映した写真が37葉、さらに震災後の区画整理事業で改称した町名の新旧対照表や地図作成時点では未だ改称されていない町名の一覧表が載せられています。


両国橋駅両国橋駅

一方、裏面を見ると、復興状況の手がかりを知るうえで大いに参考となる「東京市本所区勢要覧」が印刷され、表の地図を補完する体裁になっています。

しかし、困ったことにはこの「本所区復興図」が一体いつ作成され、いつの時点での復興状況を示しているものなのか、その期日が示されていません。ただ、裏面の区勢要覧には昭和5年のデータが載せられていることから、おそらくは昭和6年か7年頃に作成されたものと思われます。(作成年月日を絞り込むには、確定されている地図上の地番と未だ改称されていない町名を手がかりに探っていくのもひとつの方法かもしれません。)

さて、この復興事業はどのように実施されたのでしょうか。大震災の後、政府は直ちに大規模な帝都復興計画を立案し、復興事業にとりかかりました。本所区もまたこの復興計画に基づいて新たな町づくりが進められます。具体的には、焼失地域を中心に、大規模な道路の拡張と新設、区画整理が実施され、それにともなって町の区画や町名も一新されました。そのため、江戸時代以来の由緒ある多くの町名が消えていくことにもなりました。

こうした状況を確かめるには「改称町名新旧対照表」は大いに役に立ちますし、地図を見ながら、新しい町がかつてはどう呼ばれていたのか、失われた町名はどのくらいにのぼるのかなどを探ってみるのも、面白いかもしれません。

大正13年 昭和4年
国道(14m以上) 1,570間 1,570間
府道( 8m以上) 3,506間 3,575間
市道( 3m以上) 46,613間 114,326間

一方、裏面の「区勢要覧」の「道路」の項目を見ますと、大正13年から昭和4年まで、年次ごとに道路が敷設されていく様子が記録されています。ちなみに、大正13年と昭和4年の道路の延長数値を引用すると、右のようになります。

この表からも明らかなように、市道が震災前に比べて2倍以上も敷設され、その結果として区画の正形化が行われたことは地図を眺めれば一目瞭然、はっきりと確かめることが出来ます。

さて、復興事業によって整然たる町区画に変わった本所区一帯は、新たな町づくりへの一歩を踏み出すと同時に、工業化を招来する結果ともなります。再び裏面の「区勢要覧」の「産業」の項目を見てみましょう。

大正13年 大正14年 昭和元年
工場数 1,418 2,294 2,575
職工数 13,250人 17,174人 19,280人
1ヵ年生産額 55,220,617円 72,704,324円 83,318,380円

大正13年から昭和にかけて工場(紡績、金属、機械器具、窯業、化学工業等)の数やそこで働いている職工の数、1か年の生産額などが、右のように記されています。

ご覧の通り、わずか2年の間に、工場の数は約1.8倍に、職工の人数と1か年の生産額は約1.5倍に上昇したことが分かります。

このように激しく変わりゆく町の姿を確かめるかのように、この区に縁の深い作家・芥川龍之介は、「本所両国」と題した文章の中で次のように記しています。

「明治二,三十年代の本所は今日のやふな工業地ではない。(中略)何処を歩いてみても、日本橋や京橋のやふに大商店の並んだ往来などはなかった」(東京日日新聞『大東京繁昌記』)

江東尋常小学校江東尋常小学校

芥川龍之介が学んだのは市立江東尋常小学校や府立第3中学校ですが、よく見ると、地図にはこの江東小学校をはじめ区内の全ての小学校の位置に丸いゴム印が捺されています。その理由は、この『本所区復興図』は、昭和8年度において本所区内の尋常小学校の校数を1校減らすことに関する公文書に、補助資料として添付されたものであったからです。尋常小学校の数を1校減らしたことを分かりやすく示すために、この地図を使用し、各小学校の位置をゴム印で表示しているのです。補助資料として公文書に添付されたおかげで、貴重な地図が後世に残り、本所区における震災復興事業の一端を私たちに垣間見せてくれる結果ともなったのです。

本所高等小学校本所高等小学校

ところで、関東大震災における本所区内の焼失小学校は全19校523学級のうち18校496学級です。この小学校(尋常小学校及び高等小学校)復興計画は、大正13年から昭和5年に至る7年間の継続事業として行なわれ、区内では本所高等小学校をかわきりに順次着工していきます。この時、画期的なことは、それまで一般的であった木造2階建校舎を廃し、全ての小学校を耐震性・防火性を考慮した鉄筋コンクリート校舎に変えたことです。あわせて、当時多くの小学校で二部教授が行なわれていた状況を改善するため3階建にしました。

牛島高等小学校牛島高等小学校

地図の周囲には、復興を象徴する建造物の写真が37葉あると紹介しました。その中には区内の全ての小学校の写真が載せられていますが、牛島高等小学校の仮校舎を除いた18校全てが3階建の鉄筋コンクリート校舎です。復興に携わった人々の英知の結晶をこの写真から読み取ることも出来るでしょう。

また、裏面の「教育」欄の中の「小学校」の項目を見ると、19校全ての所在地、創立年月日、男女別教員数、男女児童数、そして新しくなった校舎の構造、坪数、復興落成年月日が明記されています。

錦糸公園錦糸公園

この復興事業の中で、さらに特筆すべきことは、焼失区域内の小学校に隣接して中小の公園を新設したことです。これは大震災の時に公園が避難所や救護所として大いに活用され効果をあげたことを教訓としています。地図上では、「錦糸公園」(昭和3年12月開園)など一部を除いて、新設された公園は載せられていませんが、裏面の「土地」欄の中の「公園」の項目には、はっきりと「計画中の公園」と題して「茅場公園」「永倉公園」「横川公園」をはじめ9つの公園の設置が予定され、その所在地や予定の面積が書き込まれています。

このように、表面の『写真』や「町名一覧」と裏面の「区勢要覧」を見比べながら地図をたどっていくと、本所区における様々な形での復興の様子が眼に浮かんできます。

震災当時、東京市内の公立小学校数は196校で、うち震災で焼失したものは117校に上りました。東京市は、大正13年度から昭和5年度に至る7か年継続事業としてこれら焼失小学校の復興建築工事を実施しました。

これら、いわゆる「復興小学校」の規模は16~32学級で、構造は鉄骨鉄筋コンクリート3階建てとし、地質によっては地階室を設け、また、暖房・電気・瓦斯・給水・衛生等、諸種の附属設備を有し、なおも屋外体操場には舗装を施し、運動器具、砂場、プールを備え、小動物の飼養場を設ける等、木造建築が普通であった当時、真に大都市の小学校として誇るべきものであったといえます(東京市編『東京市教育施設復興図集』、昭和7年)。

これを契機として、この設備仕様を、焼け残ったいわゆる「残存小学校」にも及ぼすべく漸次改築工事が進められていくことになります。

「本所区復興地図」が綴じ込んである公文書の冊子名と請求番号

東京府文書「昭和8年・学務課・市立学校・冊の53」

請求番号
316.B1.15

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