八丈実記 ~公文書館のイチ押し資料

東京都公文書館には、東京都文化財に指定されている資料類が保存されている。今回は、これらの中から「八丈実記」をご紹介したい。

八丈実記に描かれた流人船の絵八丈実記に描かれた流人船の絵(近藤富蔵画)

八丈島には、江戸時代から明治の初期にかけて、1800余名の流人が流された。最初の流人は慶長11年(1606)に流された関ヶ原の敗將宇喜多秀家で、八丈実記の著者近藤富蔵は文政10年(1827)に流された流人である。富蔵は文化2年(1805)生まれで、父の名は近藤重蔵といい、寛政期以降数度にわたって蝦夷(えぞ)地の巡検を命ぜられ、エトロフや千島探検で名を馳せた人物であった。富蔵は文政9年に隣家住人を殺傷し、その罪で八丈島へ遠島を仰せ付けられた。翌年配流、三根村に配された。島では宇喜多の末裔である百姓宋右衛門長女イツと結婚し、一男二女をもうけている。八丈実記の自序には、本書を弘化戊申(1848)から万延庚申(1860)に著したと書かれている。八丈実記と銘されてはいても八丈島のことだけではなく、伊豆諸島から小笠原諸島まで幅広く書かれていて、歴史・風俗・習慣を知る上で貴重な書物となっている。

写真は、八丈実記に描かれた流人船の絵である(「八丈実記」三十六 請求番号656-13-02-01-36(DD-036))。「みゆるしの 船いさみあり 夕涼み」の句の下に「平和」と著されている。平和とは富蔵の俳号なので、これが彼の句であることが判る。「みゆるしの」とあることから、船上の人々は赦免を受けた人達で、喜々として満面に笑みをたたえた人々を乗せた船が、江戸へ向かって走っていく風景と思われる。「船いさみあり」の言葉に、帰国の喜びがあふれている。江戸に向かって疾走する船の姿ばかりでなく、船上の人々のはやる気持ちも表現されているのであろう。しかし皮肉なことに、待っても待っても富蔵には赦免が下りなかった。喜々とした面々を何度となく見送る富蔵の気持ちを思うと、句の文言の裏にある富蔵の失意が察せられる。富蔵に赦免が下りたのは、明治13年になってからであった。赦免後に一度は島を離れながらも結局は島に戻り、三根村の尾端にあった観音堂の堂主として余生を送っている。

八丈実記が書かれてから160年以上の歳月が流れた。明治20年に東京府に購入された本書は、「八丈島の研究には先ず八丈実記を読む事から」と言われるほどの書となった。かつて柳田国男や渋沢敬三らに高く評価された八丈実記。いま東京都の文化財として多くの方々の利用に供されている。赦免花が開くが如く、まるで富蔵の想いがいま花開いているようだ。

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